「……と、……ちょっと、お前。しっかり」
肩を揺さぶられてハッと面を上げた。たら、と頬から汗が滑って唾を飲み込む。
「顔が真っ青じゃない。大丈夫?」
お目付け様が、いつもならキツい目を和らげて私の顔を覗き込んでいる。
「だ……大丈夫です。喉が渇いただけなので」
「朝、準備で忙しかったものね。……あとは私がやっておくから、お前は白湯でも貰ってきなさい」
まるで、呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。
はた、と面をあげる。
「ですが」
「もうほとんど見守るだけだから。あなたがどうしてもというなら、止めはしないわ」
「はぁ……」
「珍しいもの。ワタル様もご一緒なのだから」
耳たぶがぴくぴく震えた。ワタル様の名前を聞いて。
私は和室をぐるりと見渡した。ぐらと目眩がして、いよいよ吐き気もしてきた。一定の間隔をもって里のおじいさまとおばあさまが姿勢を真っ直ぐにして座られている姿は壮観だ。
一番前の列には長老様とワタル様がいる。
ワタル様は神棚の前で静かに座られて、目を瞑ってらっしゃる。お手を胸元で合わせて、微塵も動かずその背中はジッとしている。
ワタル様が長老様と一緒に鎮魂をすることにあやかって、里のみんなが朝から集まってきてしまった。私たちはその準備に追われ、いつも以上に部屋の準備と朝の身支度にバタバタした。
寝不足もあって、私はもうなんだか疲れてしまって。
「ほら、後ろからね。そろ、と出るのよ。音は立てずに」
お目付け様が後ろ手で障子を流す。いつも以上に優しかったお言葉に甘えて、こくりと頷くしか無かった。
障子を閉めれば、しばらくすると長老様の芯の張った祝詞が聞こえてくる。
胸をなで下ろしてホッとした。縁側に張られている床板はひんやりと冷たく、ガラス戸も寒々しかった。
外の景色は相も変わらず雪がこんもりと積もっている。灯篭も、庭の草木も、松の木でさえも真っ白だ。
ガラスに映る自分の顔色は確かに真っ青だった。寝不足のため、目の下なんてクマがじんわり滲んでいる。そ、と、ガラス戸に指を這わす。結露ができて、露が一滴垂れていった。
指を滑らせて、まるで鏡のように映る景色をなぞっていく。縁側を前へ前へ歩きながら、襖の模様に、私の着物の模様。そして横へ、横へ、滑らしていくと。
突き当たりで、ひとつの影が見えた。
廊下の曲がった先に、誰か座ってらっしゃる。
ドキ、とした。
「ッ……」
その方は縁側に足を崩して座られていて、降り始めてしまった雪をじっとりと見つめていた。
「わ、ブキ様」
上擦った声で呼びかけ、膝を地につける。
「おはよう。よく眠れた……という風には見えないね。大丈夫かい?」
ツワブキ様が背を低くした私の顔に手を伸ばそうとしてきて、腰だけ後ずさりする。
「顔が真っ青だ」
「ツワブキ様こそ……、」
ツワブキ様は今日も寒いのか、タートルネックを中に着込んでらっしゃる。昨日は気づかなかったけれども、首元がダボッとしていた。あからさまにサイズが合っていないそれに、チクリと針が刺さったように胸が痒くなる。
長い間ひそりと座っていたのか、唇に至っては皮膚が割れてガサガサだ。だけれども、頬だけはもったりと赤かった。
二人で話せば、寒さで白くなった息が漂う。
「中にお入りになられないのですか? 縁側は寒うございますよ」
「ボクは遠慮するよ。よそものだしね」
「そんな……大切なお客人ですのに」
そう言うとツワブキ様は少しだけ目を見開いて、
「ふふ、お気遣いありがとう。でもね、」
袖に手を差し入れて、鼻を胸元に埋める。寒さを逃がさないように。
「今は……ね、」
ツワブキ様が手を擦ると、すとん、と袖が落ちた。やはりタボ、としている黒いタートルネックの袖が煩わしいのか、何回か折り込んでいる。
それだけじゃなくて、見えたものにギョッとした。
「ツワブキ様、それは」
「ん、あぁ」
ツワブキ様の、その手首から手の甲にかけて、包帯がぐるぐるに巻いていた。
「怪我でもなされたのですか……」
そう聞くと、喉を鳴らして笑いなさる。落ちてしまった袖を指で引きあげて、
「いや。……いや、そうかもね。ふふ、それに近い」
すん、と、袖の匂いをツワブキ様が嗅ぐ。
「フスベは木の香りがする。雪が降る日はいっそう」
「…………そう、ですね」
フスベは、朝の薪を焚く匂いで起きて、炭で燻る匂いで夜眠りにつくと言われるぐらいなのだから。
「今のボクは、どうかな。木の匂いがしたり?」
「ツワブキ様は、……今は」
木なんて、そんな生易しい香りじゃない。
「……ん?」
「いえ、……」
首を傾げて催促するけれども、言えるわけがなかった。
ツワブキ様は、……今のツワブキ様にまとっている香りは。
──香炉を、どちらへ
「やっぱり……顔色が悪いね。これでも飲んで」
ツワブキ様がお盆の上の急須を手に取ると、湯呑みに注ぐ。大好きな香りだった。
「ほうじ茶……」
「昨日飲めなかったから。好きなんだろう? だったら、……ね、」
あぁ、覚えてくださったのか。なんだかじわ、と胸が滲んであたたかい。泣きそうになってしまう。面をあげて湯呑みを受け取った。
「その……ツワブキ様のお加減の方はいかがでしたか……?」
「それがね。朝、……早く起きすぎてしまったんだ」
ギグッ、と肩を震わした。確かに、昨日のこの時間帯はツワブキ様は寝ておられた。
「襖を閉じ切るのを忘れてしまって。和室は、どうも慣れていない」
ツワブキさまは困ったように眉を垂らした。
「ワタルに、笑われてしまった」
「ワタル様、が」
ワタル様の笑う姿が脳裏に浮かぶ。あの、喉を鳴らして。ツワブキ様を、見上げた──
「──不注意だったね、って」
指を唇に添えて目をゆったりと細め、彼は、それはもう、あやしげに笑う。
「っ………し…」
声が上擦れば、湯呑みを乱暴に床へぶつけてしまった。零れそうになるのを慌てて掴み直して、ツワブキ様に返した。
「仕事がありますので。……失礼します」
一口も飲めずに、私は逃げるようにその場を走り去る。ほうじ茶の匂いが鼻腔をくすぐるけど、振り払った。
私は木の焦げる匂いが好きだ。
ほうじ茶の茶葉が湯に沈む音が大好きだ。
あの、パチ、パチ、と爆ぜる音を聞く度に故郷に帰ってくる気になれるから。
あの浮き沈みする茶葉の匂いが落ち着くから。
故郷の匂いだから。フスベの、匂い。
それなのに。もう──
パチ、パチ。という音が響く。
その音に吸い込まれるように、ミニリュウが襖の隙間から和室の中へするりと入り、座卓の下でとぐろを巻いた。そして、火鉢の温かさに心地よさそうに鳴き声をあげると、皺の多くて大きな手のひらがその頭を撫でた。
「ほれ、おぬしの番じゃぞ」
ぐらりぐらりと。長老様に向かって座っている相手の頭が揺れる。かぶりを振って、その人はパチリ、と将棋盤に駒を指した。上手い戦略にあっけなく駒を取られたにも関わらず、長老様は、満足気に笑って髭を摩る。
「うまいのぉ、そうきたか」
盃に日本酒を注ぎながら、
「じゃが、お前さん。もう限界じゃろうて」
止めようか止めまいか、私も周りもオロオロ二人のお顔を交互に見ているが、タイミングがどうも掴めない。
なにせ、長老様の機嫌も大変宜しく、お相手も納得がいかないのか、真っ赤に茹でた顔に、キツく目を細めると、次々と駒を指していくものだからこれを止められるなんて、そんなそんな。
きっかけは、そう。
夕食後の余興にして、長老様が珍しくも将棋盤を持ってきたとき、里の男たちは一斉に顔を喜ばせた。長老様の勝負を受け、または勝負をふっかけた皆は畳の上でとうに潰れている。
夜も深まり、時計の針は二十二時の刻を指している。さて、みな寝に入ろうかとするとき、長老様の勝負を遠巻きで見守っていたその人が立ち上がった。
──ぜひ、お相手を
ツワブキ様は、ゆったりと笑って、座卓の前に座り、どこから持ってきたのか日本酒と、盃二つを将棋盤の上に置いたのだ。
挑発的にツワブキ様の笑うお姿に、長老様は、とてもとても、嬉しそうな顔を浮かべた。
そんな顔みたこと無かったものだから、私含めて周りのみなは目を見開いて唖然とした。
「ほれ、次は」
盃にお酒を注ぎ、ツワブキ様が飲む。こくりと喉を鳴らせば、あとはパチリパチリと音が響くだけ。
「ほーう、なかなか」
種類の違う二つの手が交互に将棋盤の上で駒を動かす。皺の多く、血管も太く浮き出た大きな手に。すっきりとして指がスラリと長い手に。
「やられたのお」
駒を取られたらお酒を飲んで。また動かしていく。
誰も止められるはずがなかった。長老様がとても機嫌が良かったのに水を差すのはいかがかと、確かにそれも理由の一つだけど。
チラ、と、その相手を見る。
「……そちらの、番ですよ」
ツワブキ様の目が、あまりにもグツグツと煮立つのを誰が、止められるだろうか。
でも。ふら、と、突にツワブキ様の顔が前に揺れて誰かが息を飲んだ。
まずい。身体が倒れてしまうわ、と、受け止めるにその場の人が何人か立ち上がろうとすると。
スパッ、と襖が開いた。勝負に熱中する二人を除き、周りのみなが揃いも揃ってそちらを見る。
「……こんな遅くまで、みんな何してるんだ」
襖に手を置いたまま、ワタル様が目を丸くしていた。
「わ、ワタル様」
「止めてくださいまし、止めてくださいまし」
声を潜めてワタル様の羽織を引っ張る男に首を傾げ、畳部屋の奥を見ればワタル様がギョッ、として、
「じいさん、……もうやめてやってくれ」
二人の座卓に近づき、自身の羽織を脱ぐとうつらうつら船を漕ぎ始めるツワブキ様の背後に回って、その肩に触れる。
「ダイゴ。きみもだ」
ぶるぶるとツワブキ様が頭を振ったけれども、ワタル様が羽織を頭まで被せてしまった。表情が見えない。
長老様が声を弾ませた。
「どれ、お前もひと勝負やるか」
「すっかり潰れかけじゃないか。ほどほどにしてくれよ」
「まだまだ鈍ってないということじゃな」
長老様は大変満足気に笑いなさると、日本酒をぐい、と飲んだ。うつらうつらとしていたツワブキ様はすっかり意識が朦朧としている。
座卓の下には徳利が何本も転がっている。ほとんどはツワブキ様が飲んだのだと考えると、ゾッとする。
ワタル様が額に手を当ててため息をつく。
「ほどほどに、っていうのはダイゴにここまで飲ませたことだ。日本酒がそんなに得意じゃない」
「ホウエンの男は酒に強いと聞くがのう」
「人には得手不得手があるってことだよ。寒い地方の酒と暖かい地方の酒は全然違う」
長老様が喉を鳴らして笑いなさる。大変ご機嫌がよろしいことで。
「してこの若者。なかなかだった」
将棋の駒をひとつ摘んで、ワタル様に見せびらかす。
「このわしに、四つも空にするよう飲ませたからな」
ワタル様が長老様をキッ、と睨むと、心外だなぁ、と首を振った。
「勝負を誘ってきたのはダイゴ殿だよ。賭けをしてたんじゃがな」
「……なんだって?」
「お前には一生教えるものか」
「ッ……、……じいさん」
からかうように、ワタル様を弄ぶ姿を見ると、どうやら長老様も相当酔っているらしい。ワタル様が眉をつり上げる姿もとても珍しくて、なんだかハラハラしてしまった。
「はっは。お前……年甲斐なく青いな」
上機嫌に長老様がそう言ってお酒を飲む様子を見て、ワタル様は大きくため息をついた。そのとき、すっかり顔を突っ伏して寝ていたツワブキ様がうーん、と唸り声を上げて身じろいだ。
寒かろうと懸念してワタル様が被せた羽織が落ちる。
する、と見えた真っ白なうなじまで、みるみる真っ赤だった。
「ダイゴ。立てるかい」
「んー……、……」
名前を呼ばれて応えるように手を、はた、と軽く上げるけれども所在無くしてすぐに落ちてしまう。
「無理そうだな」
苦笑いして、ワタル様はそのぐったりと床に落ちている腕を掴む。肩で身体を支えて、ツワブキ様と一緒に部屋を立ち去ろうとすると、
「ワタル」
呼ばれてワタル様が足を止める。
「知っておろう」
長老様は目を伏せ新しいお酒を盃に注ぎ、
「ほどほどにな」
最後につけ加えた言葉だけやけに冷たく言いなさる。ワタル様は頷きもせず、振り向きもせず、そのままツワブキ様を肩に支えたまま部屋を去っていってしまった。
