牡丹雪✱r18 - 1/11

⚠モブ視点のお話です。

 

 

 これはわたしの不思議な体験と言いますか、夜な夜な忌憚というものとしては少し物足りない気もしますが、それでも一人心に留めるにはもったいない気がしまして、まぁ寄る機会に甘えさせていただきたい所存であります。わたしが恐れ入りまし。そのどこかの縁もありましてありがたいことに、フスベのお屋敷にお勤めさせてから幾年が経ったでしょう。見目もまだ青臭い年端もいかぬ生娘は、やがて跡を継げうる生娘を育てる歳まで経たものです。あぁ、いつのことだったか、あの夜は。しん……、と静まり返ったフスベの深ぁい雪景色があたりを包み込みまして、山の下のみなさまも、山の上のみなさまも、みな天災までも恐ろしい吹雪に右も左も行くことは出来ず、そんな日でしたか。みなさまもそれはもう大騒ぎになられたことですので、ご存知でしょうが、そうそうお帰りにならないお人が姿を現すというのはまさに神様が参られるようなことでして。……ここまで言えば察する方はお分かりでしょう。そうでございます。ワタルさまが突に、一人の見目麗しいお方を連れて帰ってきたあの夜夜のことです──

 

 

かいましら

 ゆらと崩れる 幻は

  牡丹のみぞ 夢かなと見ゆ

 

 

「すごい雪でね」

 夕暮れ前。
 ガタガタ吹雪に揺れる、ガラス戸を眺めながら、ワタル様は困ったように笑ってそう言った。女中は右へ左へ、お着物に手ぬぐいに、用意するもの運ぶものにあちこちと走り回った。雪に包まれたフスベは大騒ぎだった。ワタル様が、帰ってきたと。

「本当は、寄るつもりはなかったが」

 フスベで一番大きなお屋敷。
 女中なりたての私は、大騒ぎする里の様子にあっけに取られ、長い廊下をバタバタと走り回る足袋の音に困り果ててしまった。なにをしたらよろしくて、と聞く前にワタル様がお声がけしてきたものだから、恐れ多くも身が竦む思いでいっぱいになり、身体が動かなくなってしまった。
 緊張で。言葉がでてこない。

「客人を抱えてな。酷い下山する礼儀は、教わってないからね」

 迷惑だったかな、と、ワタル様は私を見て言った。

「そんな……ッ、そんなことは……」

 ちぎれんばかりに首を振り、震える手でようやく手ぬぐいを差し出す。ワタル様はありがとう、と笑って受けとった。
 奥から湧いて出てきた年老いた女中たちがする、とワタル様のお傍に寄る。

「ワタル様。湯の準備が」
「助かるよ、先に、客人を優先してくれないか」
「たなごひを、温めておきましたゆえに」
「ありがとう」
「お着物はこちらに。お荷物は例のごとくお部屋に運びましたので」
「湯の後、彼を部屋に案内してやってくれ。着物は教えたとおりに」
「はい、たしかに」
「ワタル様。長老殿がお待ちです」
「すぐに行く」

 マントを肩から下ろせば漆黒の生地にてんてんとこびりついている雪がハラ、と落ちる。女中の一人が受け取ると、ワタル様はそのまま追って行ってしまった。襖がパタン、と閉じられる。

「お前、お部屋で火鉢を温めておきなさい。灯りも忘れずにね。あちらの着物はこちらでやるから。部屋は分かるね」

 私のお目付け様が鋭い目でまくしたてる。シワが深い顔に、ますますシワが増えていくのを見ると、そうとう気が立っているらしい。無理もないでしょう。

「はい。もちろんのこと」

 ワタル様に最後お会いしたのはもう何年も前のことだけど、このお屋敷に暮らすようになってからまず教わったことがある。何度も何度も叩き込まれた部屋の配置。特にワタル様のお部屋は常に綺麗にしておくことと釘を刺され、あそこの障子をいくつ張り替えたものか。
 ワタル様のお部屋は本当に人の気配が無い。普段いらっしゃらないお方のお部屋というものは、誠に静かだということを知ったのは、ワタル様がきっかけだ。どんなに掃除をしてすみずみ綺麗にしたとしても、人に使われていない部屋は、不思議とシン、と水を打ったように静かだ。
 それだから、今宵はなんだかワタル様の部屋も、私の胸も、騒がしかった。
 火鉢に小石を敷き詰め、灰を被せる。炭を寄せ、火箸で文様を描きながら火を起こす。炭のパチ、という音とあたたかい木の焦げる匂いがしてきて、畳の匂いと混ざりに混ざる。こうして、使われていない和室は、ようやく人の気配がする匂いに満ちていく。
 鉄瓶をのせようかと手を伸ばしたとき、スパ、と部屋を切るかのように襖が綺麗に開いた。

「や、あたたかいね」

 襦袢だけ身にまとったワタル様が突に現れるものだから慌てて鉄瓶を火鉢にのせて立ち上がった。ワタル様が和室を横切って床の間の元へ行ってしまうのを後ろから追いかける。
 箪笥から急いで檳榔子染の黒い長着に、褐色の帯を取り出した。そのたくましい背中を見上げて、震える声を出す。

「ワタル様、お腕を」

 ワタル様は振り向かず、腕を上げてくれた。
 昔、お祖母様から教えられたとおりに。あくまで静かに。音を立てず、無駄な動きはせぬこと。何度も何度も反芻したことを、まさか、本当に実践する日が来るなんて。
 たくましい腕。後ろから長着の袖を通し、乱れに皺を無くすよう軽く下に引っ張る。
 腰紐を結わえて、帯を手に取れば、

「待った」

 長くて骨格の形が綺麗な指が、私の手の甲をすれすれ触れないように伸ばされて心臓が跳ねた。
 ゆったりとした低い声で、ひっそりと。

「そのままで構わないよ。帯締めは自分でする」

 大きな手が私の手から帯を攫う。
 ワタル様の帯締めの手際というのは、それはそれはなんとも美しい所作だった。
 腰に回して、帯の先を弛まぬようピン、と引っ張る。皺のない帯は後ろに、結び目を見ずともワタル様はあっという間に締めなさる。
 ほとんど実家には帰られないというのに、そんなことは嘘なのでは、と思ってしまうほど、ワタル様の所作は、本当に完璧で。
 指の先一つ一つまで教えられたことが身についているんだろうと。

(いけない)

 かぶりをふって、慌てて羽織りを手にとったとき、またスパッ! と、襖が開いた。

「よろしいかな」

 里のじい様と、その息子たちがぞろぞろと入ってきた。

「いまお支度を終えたところです。お座りになって」

 あとから入ってきたお目付け様にそう言うと、じい様たちが頷いた。
 ワタル様に羽織を渡して、すぐに行灯を灯す。すっかり陽は落ちている。
 薄暗かった和室は、いささか明るくなった。
 ワタル様がまずお座りになって、箪笥から取り出したのは何故か爪鋏だった。布を敷いて、袖から手を滑り出した。行灯の暖かい色に照らされて、白い手筋から太い血管が浮き彫りになる。一番先に控える四角く分厚めの爪は、少しだけ伸びていた。透明なそれに、行灯の橙色が滲んでいく。
 パチ、パチリと、音が鳴る中で、里のみなが一斉に話し出した。

「ワタル様のご意見を頂戴し、その諸々を里のものが望んでおります」
「今年の雪はあまりにも酷く、山に慣れていないトレーナーの遭難事故が懸念されるので、いっそジムを閉めてからに」

 ワタル様を中心に、右に左にぐるりと並ぶ里のみなが、あぁだこうだ、酷い吹雪で苛まれている問題について懸念する。私はお目付け様を挟み、ワタル様の左隣でその様子を黙って見ていた。いつもなら隣におられるはずのイブキ様は、今フスベにいない。正月が終わるとすぐに、一年で一回、カントーとジョウトの全てのジムリーダーが招集される会合に言葉のとおり飛んでいってしまった。
 だから、イブキ様がおかえりになる前にこのような吹雪が、こおりのぬけみちから山にかけて襲いかかってしまって酷く困ってしまったのだ。イブキ様からの連絡も届かない。雪が酷すぎると、すぐにフスベの電波が悪くなってしまうのは常識だ。
 だから、ワタル様がお帰りになられて、里は大騒ぎになったのだ。
 どうしてこの時期に、帰られたのだろう。
 話し合いが進まず、里のみなが好きにあれこれ言葉を投げていると、

「おれは、閉山するべきではないと思うけどな」

 ワタル様の声で、しん、と静まった。パチ、とまた音が鳴って、ワタル様の指から折れた爪がはらり落ちる。

「イブキもおそろく、同じことを言うだろう。あの山ぐらい越えられなければ、フスベのジムに入る資格はない」

 お厳しいことをおっしゃるな、と胸の内でひとりごちた私ではあったが、様子を見るに、里のみなもどうやら狼狽しているらしく、ワタル様が面をあげずに言ったその言葉たった一つで、和室は水を打ったように静かでいる。

「……おや、厳しいことだと思ったかい」

 ワタル様がくっく、と喉を鳴らし、あぐらをかきながら頬杖をついた。図星をつかれたみなは決まりが悪そうに目をあちこちへ逸らした。

「おれの意見だけ通すわけにもいかないだろうに。イブキが戻ってくるまでは、膠着状態なのは変わらない」
「長老殿には……」
「ジムの最高権力はイブキだろ。おれが口を出しても、彼女が首を縦に振らない限り、無駄だ」
「ですが、」
「本部の手も、各地のジム統制に関しては意味が無いんだ。まぁ、でも確かに、イブキがそもそもいないなら、」

 ワタル様は目を伏せて、

「その間だけでも、……山を閉めた方がいいかもな」

 その言葉にようやく里のみんながほ、と胸をなでおろした。

「それともフスベの山すみずみまで、みんなで雪かきするか?」

 そしてその言葉にみなサッと青ざめた。冗談に聞こえないわね、ワタル様が言うと。
 それなのにワタル様はぐるりとみなの顔を見渡せば、可笑しいものを見たかのように大きな声を上げて笑った。冗談だったのだ。

「無理だと思ったなら、さぁ、みんな。これで終わりだ。あまり不安そうな顔をしないでくれ。宴の準備を」

 ワタル様が一回手を叩くと、弾かれたように里のみなが正座を解した。立ち上がり、足袋のバタバタとした音が忙しなく立ち去っていく。襖を開けて、ぴしゃりと閉めた。和室には私とお目付け様だけが残る。
 沈黙が痛かった。ワタル様は相も変わらず、パチリ、パチリ、と自身の爪を爪切り鋏で折られている。
 右手の薬指を一回、二回。中指を二回。人差し指は、一回、二回、三回折られたところで、私は思わず手をあげた。

「あの、ワタル、様……」
「うん?」

 ワタル様は、その手を止めて面をあげた。はらり、人差し指の爪が落ちる。和らげに笑ってはいるけれども、射抜かれるような強い眼光に身が縮みそうになった。

「お爪の方、少し切りすぎなのではないかと」

 このままでは、指を切りかねない。
 ぎょっとしたお目付け様の顔が真っ青になった。お前およし、と隣からぴしゃりと窘められて、慌てて、

「ごっ、ご無礼を……」

 二人揃って深く頭を下げれば、ワタル様はまったく気にもしていない。ますます優しく微笑みなさる。
 そのお顔は、果てしなく慈しむようなお顔に見えたけれども、

「……あぁ」

 声は、少しだけ低い。

「昔。……遠い昔だけどね。皮膚を破いてしまわないか、怖くなってしまったことがあるんだ」

 怖い。怖い、ですって? 誰が、何を。
 どこかはぐらかされたような。納得が上手くいかない返しに、私はただ、はぁ、と頷くしかできなかった。ミニリュウの脱皮にでも出くわしたのでしょうか。

「傷つけては、いけないからね」

 パチン、という音が静かな部屋に響き、親指の爪が落ちる。ハラハラと布の上に溜まるそれを、行灯がこうこうと照らして橙色に染めていく。
 まるで燃えつきていく炭のようだと、呑気に思った。