牡丹雪✱r18 - 6/11

 匂いが。
 誘惑する。
 あまくてとろけて、鼻腔をくすぐり気管から心臓へ流れ落ちて胃にせりあがる。
 梅のような桜のような菊のような。でも違うの。どこかで嗅いだようで思い出せぬ匂いは、どこで嗅いだのかしら。 
 春の花ではない。夏の花ではない。秋の花ではない。かといって冬だけの花だと言うには似つかわしくない。
 外は雪が降り積もる。庭の草木も灯篭も雪に埋もれて静まっているというのに、まだまだ、満足がいかないのか降りしきる。
 ふつふつとした脳にこびりつく感触。目がとろん、となってしまう。足もふらりふらりよろけながら、まるで酩酊状態。味わいながら、回廊を踏みしめた。
 この匂いはどちらへ。私をどちらへ誘うのか。脳も心も身体の隅々までもがトロトロに溶かされて、夢の境界ですら曖昧に。
 光おぼつかない夜は目が頼りにならず。寝静まった夜は耳も頼りにならず。
 だから夜は、鼻がいっとう役に立つ。敏感になる時間帯。
 青い影に満ちた回廊。雪に埋もれて澄んだ空気から、雲がぱ、と消えて月明かりが清らかに透明になった。ガラスごしに差し込んでくる。
 雪はいつの間にやんでいたのか。
 てらてらと反射する床板の艶。艶が伸びて、指し示す襖。襖の先は、やはり、たまらなくたまらなく、甘い蜜のような花の香りが広がっている。
 そこは。
 ワタル様のお部屋。

(ダメよ。そう。戻りなさい。ダメなの。これはきっと)

 襖の引手に袖をかけたとき、指が震えていることに気づく。
 突に……。

──ポケモンが花の蜜に誘われる理由を、お前は聞いたことはあるかい

 いつの日だったか。
 祖母の言葉を何気なく思い出した。たぶん、これは私への最後の警鐘だったのだろう。
 夏の風鈴の音が気持ちいい、フスベのお屋敷の縁側で大好きな彼女の膝元でくすぐったく笑っていた日のことだった。もう遠い昔。私がまだ幼い頃。旅に出る前のこと。
 私ははしゃいで、ねぇおばあさまどうして。どうしてなんですか。と身をよじらせながら、祖母のお腹をぎゅ、と抱きしめて、あの優しくて柔らかい匂いを深く感じていた。祖母が頭を撫でる皺深い手つきが大好きだった。
 でも、あのとき。
 お屋敷の庭で、たまらなく甘い匂いがした。花の匂いだった。

──おや、ワタル様

 あのとき。おばあさまはふと話を止めて私を膝から降ろし。

──どちらに

 私も面を上げて座り直して、見たあの小さい頃の眼差しの先。中庭で、夏の陽射しをものともせず、笑っていた若かりしワタル様のお顔。片手に、萎れた菊の花を一輪持っていた。

──もう行かれるのですか

 初めて見たあのときのワタル様のお顔が。

『……あぁ』

 ずっと、脳裏にこびりついて忘れられない。

 

 

 するー……と、音を立てずに襖をずらした。その隙間、私の瞳サイズで、かなり、かなり、少しだけ。案の定、和室の中は暗く、静かさに満ちていた。寝息すら聞こえないため、さては私は空き部屋と勘違いしてしまったのかと、妙に緊張して固まった肩を、すとん、と下ろした。
 でも。

「ッ……」

 ふわ、と。香ってきたものに悲鳴をあげそうになった。
 嗅いだのはこれで三度目だ。一度はワタル様の手から。二度は、私を支えてくださった、──ツワブキ様の、腕。

 そろそろ……いいね

 ワタル様の、お声がぽつん、と浮かぶ。暗闇でよく見えないけれども。誰かを組み敷いてらっしゃる。……あれは。

 ちょっと、まっ……て、……ッ……

 ゴソゴソという音に、悲鳴がまじる。昼の落ち着いた声とはかけ離れていて、最初は誰だか脳が理解に追いつかなかったけれども。

 しー…………

 歯で息を擦るように、子どもをあやすように。なだめる優しいワタル様のお声に反して、口を塞ぐ手つきは荒々しかった。だって、下に組み敷かれている影が、あまりにも暴れるものだから。
 その足が、布団を蹴りあげて、バサ、と、ワタル様の背中からずり落ちる。
 色素が薄い光がようやく、影をうっすら映し出した。あぁ、やはり。

 ……ダイゴ

 愛おしげにワタル様は組み敷く相手の名前を呼んで。

 ダイゴ、しずかに

 あまりにも、あまりにも。優しげに甘ったるく。ワタル様がその名前を繰り返す。

 おっと、唇は噛まないで
 ぅ、ん……ッぐ、
 いい子だ。そのまま……足を持ち上げて、ゆっくり。呼吸を、おれに合わせて

 もしや、会話を聞くに、ツワブキ様はどこか具合が悪いのかもしれない。そんな考えが過った私は、はやくもこの襖を遠慮なしに開ける必要があったはずなのに、それなのに、手は、震えるばかりでなにもできず。たった、数センチの隙間から見える黒い影ふたつと、艶かしい声をふたつ、目を開いて耳もこじ開けて、ただじっ、と、座っていることしか出来なかった。

 んぁッ……アッ……ふっ……

 昼のときとは、かけ離れた。ツワブキ様のお声。こんな声をしてらしたかしら。本当に、本当にツワブキ様なのかしら。違うお方なのではなくて。ワタル様も、私の知っているワタル様じゃない。
 じゃあ目の前にある光景はなに。この甘ったるい匂いは、なに。昨日の夕暮れの宴のときよりも、今日の昼の袖のときよりも、刺激が強い。頭をかき混ぜるような甘ったるいこれは。

 や、……んんッ……き、……

 ワタル様の腕にしがみつくそのお姿。
 ぽんぽん、と、水に玉が跳ねるような、雫が弾かれるような、そんなお声だった。どこか奥ゆかしく、隠そうとしても、しとどに流れる川の濁流に、どうにかこうにか岩にしがみついても流される足が、結局もつれてしまうかのような、艶やかな声だった。

 気持ちいいだろう
 ん……ッ……ぁ

 とろ、としてきて、もう暴れる力がないのか、ワタル様の意のままに腕を引き上げられる。くたん、とした身体はワタル様の胸へ落ちていった。

 座って。そう

 震えながらも、膝の上に乗るツワブキ様。呼吸は荒く、顔は赤い。

 ……花びら餅は美味しかったかい

 ワタル様は抱きしめるようにして抱えれば、ツワブキ様の帯に触れる。帯の結び目をゆっくり解くと、くったり長着が緩くなる。腰の後ろから太ももの付け根にかけて、するる、と皮膚を慈しむように優しく撫で上げ。襟の合わせから手を滑り入れて、胸から鎖骨にかけて揉むように運ぶと、ツワブキ様がブルっと震えた。

 日本酒は不慣れだって、……はは

 肩にかかっていた長着がズレて、はだける。暗い紺地が半分だけ落ちれば、眩いほどの白い肌が行灯のもとに晒された。白い肌に、まるで花が咲いたように橙色が染みていき、薄暗くあらわになって、脱げ掛けの状態になる。とても、目に毒だったのに、なぜか目が離せなかった。
 ツワブキ様は、唇をきゅ、と噛んだ。ワタル様は、左手はそのままに、右手は布団の上を滑らせて、

 ……よく言えたものだ

 コトン、と。陶器がぶつかる音。畳の上には漆塗りのお盆があって、徳利が置かれていた。

 ほら、……のんでみようか。ダイゴ

 そう言ってワタル様は口にお酒を含む。ツワブキ様の顎を指で掬って、口移し。つるりと、飲みきれなかったお酒が口の端からこぼれ落ちていく。喉を伝って、鎖骨を伝って、ぼたぼたに、布団を濡らしていった。アルコールの匂いが充満する。お香の匂いと混ざりに混ざって。
 ツワブキ様が逃げようと身をよじるけれども、ワタル様が力強く顎を掴んだ。

 んッ……く、……ぶ、

 こくん、と飲み込むのを確認して、ワタル様はツワブキ様から垂れた露を舌で優しく舐める。

 おすそわけはたまらなくおいしいって。それは、きみなら……分かるだろう

 ね。と、言い聞かせるように声を低くして、

 ッ……ぁ、

 耳たぶにキスを。鎖骨に、指をはわせれば。

 あっ……あッ……まって、その、触り方
 うん……? 
 やめ、……ッ、とまらな……

 ツワブキ様が逃げようとする。逃げようとすれば、ワタル様が鎖骨を噛んだ。ビクッ! とツワブキ様が上に跳ねる。
 噛んで、噛んだところを吸って。舐めて。まるで蜜を食らうかのごとく。最初は逃げようと腰が後ずさっていたはずのツワブキ様が、ねだるように腰を落ち着かせて、徐々に。

 は、ぁ……んッ……も、……

 腕をワタル様のうなじに絡めて、腰を、もどかしそうに揺らす。
 ワタル様が今度は鎖骨から首筋に舌を這わせた。手は、胸から下へ。下へ。下へいくにつれて。音が変わる。
 じゅ、と、何かが潰された音が聞こえた。実が木から落ちて果肉がグチャグチャにされる音に似ていた。
 ツワブキ様の背中がしなる。電流が走ったように。

 ぁ、や、……やだッ……それは、ダメ……だ、めだ……
 そうか。……どうしたい?
 ぁ、……ぅ、……ぐ、自分で、させて
 じゃあ、ほら。……捕まって

 ワタル様がツワブキ様の腰を掴み、持ち上げる。ツワブキ様が、布団に手をついて、何かを躊躇ったようにしばらく震えていたけれども。

 んッ……あ……あっ……あッ……

 ゆっくり。ゆっくりと。

 ぁ、……ッぐ、……うぅ、んッ……んん……

 そうやって、ツワブキ様がワタル様の肩を支えにして腰を何度も何度も揺さぶっている。ワタル様はその様子を見上げるだけで。
 そして、気持ちよさそうに喘ぐばかりのツワブキ様の、そのだらん、と開いたままの口からこぼれ落ちる唾液ごと、甘い声を飲み込むようにして、掬うようにして、唇を食らった。

 んッ……んぅ……ッ……ふッ……

 舌を絡めて、呼吸を飲み込むように。気持ちよさそうに、ツワブキ様は腰を揺らすのを止めない。
 つゆの音。ぴちゃ。とか。つぷ、とか。ぱちゅ、とか。ぐちゅ、ぐちゅ、とか。そういう音とツワブキ様の艶やかな声が混ざっていって。
 しばらくすると、ワタル様はお顔を離し。

 はッ……ぁ、あッ……

 骨に糸が張ったようにしなっていくツワブキ様の腰を力強く手で掴んで。爪が、そう。
 短く切りそろえたばかりの爪を、その長着と肉に食い込ませて。

 んッ……い、……イく……ぁ、イッ……

 ワタル様は、この上なく楽しげに、満足気に。目を細めて。眉を垂らして。口角をあげれば歯を見せて。
 ツワブキ様がとろけていく表情を瞬きもせずじッ……と見つめれば、喉を鳴らして笑いなさる。
 それはまるであのとき。

──ワタルさま

 あのときの。真夏の日差しの陰りで笑った、

──もう、いかれるのですか

 ワタル様のお顔と、なにもかもが同じだったものだから──

「ぅ、ぁッ、あァ゛──ッ……!!」

 ツワブキ様の劈く声で頭を殴られたように我に返る。
 ドッ! と、身体中が熱くなった。そして遅れて心臓が飛び跳ねる音が追いかけてきた。追いかけてきた、というのも、私は足がもつれながらも、気づけば立ち上がってその場を去っていたから。足音は立てずに、廊下を走る。静かな夜なはずなのに、心臓が、ドッドッドッと、脈を震えんばかりに流す音が、もう死んでしまうかと怖くなったぐらい、うるさい。うるさい。
 まさかそんな、やはりあの二人は。
 私は恐ろしくて自室に駆け戻り、崩れ落ちるかのように布団に転げ、毛布でぐるりと身を包むことで遮断した。
 目を瞑っても、耳を塞いでも。
 脳裏に浮かぶ、ツワブキ様のしなる身体に、艶やかなお声に。ワタル様の、この上なく楽しそうなお姿。
 雪が降り積る静かな夜。私の鼓動の音が邪魔をした。身が今にも引き裂かれてちぎれてしまうかと思った。どうしよう。泣きそうで、隣ですやすや寝ている女中に嗚咽がバレないか怖くて手を握り、唇を噛む。痛い。ああ、噛むべきではなかったわ。
 夢じゃない。幻覚でもない。
 そして、私は大変なことを思い出し、ヒヤリと背筋を冷たいものが撫でる。
 あぁ、どうしましょう。どうしましょう。
 忘れていたのよ。
 襖を、閉じることを。