次の早朝。雪は止んでいた。
お屋敷の雨戸を開けていると、冷たい空気が入り込んできてブルッと震えた。肩をさする。はやくお屋敷の中に戻ってあたたかい竈の方へ行こう、と踵を返そうとすると、遠くの方からパキーン、パキーン、という空気を切り裂くような音が聞こえて思わず身体が止まる。確かに、フスベのお里には薪割りに務めてから朝が始まるというぐらいなのだから、何も不自然なことはないのだけれども。
あまりにも音が近かった。
縁側から雪下駄を履いて、庭をぐるっと回る。門に繋がる途中、たくましい背中が見えた。襷がけをしているため、短くなった着物の袖から、強靭に鍛えぬかれ、屈強な筋肉を持った腕が斧を大袈裟に振り落としている。パキ、と真っ直ぐ縦に割れた薪の断面は思わず息を漏らしてしまうほど綺麗だった。
声をかける前に気づかれる。振り向いた顔は、にこりと笑った。
「おはようございます……ワタル様」
ワタル様は、斧を年輪に刺して額に溜まった汗を拭う。
「やぁ。寒いのにお勤めご苦労様」
「そんな……いつものことです。ワタル様は……」
どうしてこんなに朝から薪割りを、とは聞かず年輪に刺さったままの斧を見下ろす。ワタル様は襷の結び目に触って、
「薪割りも久々でね。そうだ」
しゅるり、解くと袖にしまう。代わりに取りだしたのは、
「これをダイゴに渡してくれないか。時間のあるときで構わないよ」
一枚の畳紙だ。中になにか包んでいるのだろう。
「まだ寝ているだろうから。おれはこれから山の方に行かないといけなくてね」
「承知致しました。必ず」
「助かるよ」
それじゃ、と言って、割った薪を抱えるとワタル様は屋敷の庭をぐるりと回って行ってしまわれた。
ワタル様が完全に見えなくなってしまえば、ぽつりと呟いた。
「変わらない方だわ」
ふら、と急に訪れれば里のみんなが大騒ぎしてしまうほどのお人なのに、どこかへと忙しなく行ってしまわれる。まるで幻のようなお方だと思ったのは、今だけの話じゃない。
本当に、変わっていない。
あのときと。
昼ご飯を終えて、私はワタル様の言いつけ通りにツワブキ様を探しに行った。お屋敷にはとっくにおられなかったので、外に出れば、川べりに人だかりができている。
里の男たちに囲まれていたのは件のツワブキ様だった。
寒いのか着物に黒のタートルネックを着込んでらっしゃる。フスベの男は寒さに強いので、そんなことはしない。なんだかツワブキ様だけがぽっかりと違和感に埋もれているように見えた。
でも、昨日の宴会では確か。
(……考えすぎね。外は寒いだろうし)
ホウエン地方はフスベよりもずっと暖かい。雪に慣れていないだろうし、きっと、相当冷えるのだろう。手は袖にしまい、鼻は真っ赤だ。
「それでツワブキ殿。いかがかね」
里の男の一人が、麻布を開いた。その上にはゴロゴロとした、なにやら錆びた石みたいなものが何粒かある。ツワブキ様はひょいと、一番大きな粒を手に取ると、どこからか取り出したのかルーペでまじまじと見る。周りにいる輩も、石を覗き込んでゴクリと喉を鳴らした。
しばらくすると、ツワブキ様がルーペを袖の中に、石は麻布の上に戻した。
「どれもなかなかな鉄鉱石ですが、陶器の加工には向いていません」
そう言って首を振った。周りの男たちは揃いも揃って石から面を上げ、ツワブキ様をじ、と見る。
「酸化されている鉄の割合が不十分に思えます。溶かして鋳造したとしても、綺麗な光沢はおそらく出ないし、なにぶん量が足りない。製鉄に時間もコストもかかる」
そうだな……と、顎に手を当てながら、にぱっと笑った。
「せいぜい漬物石かと」
ドッと、里の男たちも笑う。
「いやぁ。そうかそうか。相も変わらず博識なお方だ」
「今年の冬は無用だな」
「そうさね。漬物石にしてしまおう」
「良ければ紹介状を用意しますよ。イッシュ地方に良質な鉄鉱石の採掘所があるんです」
「それはいい。ぜひとも頼んます」
「おぉ、ここにいましたか」
しわがれた声がツワブキ様に話しかけ、肩をたたく。手には漆塗りの箱を持っていた。蓋を開ける。中には可愛らしいお餅が並んでいた。
やわらかい二つ折りの求肥には、白い味噌餡とゴボウ、それにひし形のお餅が挟んでいるはず。
「ツワブキ殿。花びら餅はいかがかな。お正月の宴であまりにも餅が余ってしまったものだから困り果ててしまってなあ」
「よろしいのですか? ぜひ、いただきましょう」
ツワブキ様は人差し指の指輪を外す。花びら餅をつまんで、一口含んだ。
「うん。これはおいしい」
にこにこと笑いながら、口を抑えてらっしゃる。
「ツワブキ殿はたまらなくおいしげに召し上がりますねぇ」
「昨日の宴のときもなかなか」
「どうです。夜みなで晩酌でも」
「ワタル様もお呼びしよう」
ぜひぜひ、と里のみなが破顔した。ワタル様、という名前に反応したツワブキ様が、目をどこかへと向ける。
どこへ、と、私も追いかける。その目線の先には──
(ワタル様だわ。お山から帰ってきたのね)
里の橋からワタル様が何人かと話しながら、お屋敷の門に向かって歩いていく。
ドキッ、と心臓がはねた。
一瞬だけワタル様がこちらを見た気がして。
私ではなくて。里の誰でもなくて。
(誰を……、あ……)
ツワブキ様だ。ツワブキ様を、見てらっしゃるのだわ。と、根拠もなくそう思った。
視線を気づいたのはこの場で二人だけ。私に、そして、……ツワブキ様も。
なぜかは分からないけど、二人は確かに、目線と目線を合わせて、何かを確認していたように見えた。
その目はぐら、と熱いものにも見えた。二人の間に、煮立ったなにかが泡立って弾ける。
けど、すぐに目線は逸らされる。一瞬のことで、はて、と私は首を傾げてしまった。
気のせい、だったのかしら。
「ご気遣い非常に感謝致します」
ですが、とツワブキ様は言葉をちょっと寂しげに続けた。
「日本酒は不慣れなもので」
あぁー、と里の男みな揃って悲しげに声を上げた。それなら仕方ないな、無理は言いませんよ、と互いに頷き合う。
「昨晩無理してたのですね。そうなのですね。でしたら、今晩はせめて甘酒でもお持ちしますよ」
里のおじい様のひとりが、川に向かって大声をあげる。
「おぉーい、お前たち。そこのそこの。こちらに。お前たちも花びら餅をおたべー」
川沿いでポケモンたちと遊んでいた子どもたちが一斉に走ってくる。嬉しそうに声を上げながら、漆塗りの器の中にぎっしり詰まっていた花びら餅はひとつ、ふたつとなくなっていった。残り少なくなると、小さい子は体格のいい子に押されて手が届かなくなる。それに気づいたツワブキ様は、
「蓋をお借りします」
器から蓋へいくつか移すと、後ろで寂しそうにしていた子どもの前にしゃがむ。
「ここから貰って」
なんとま、気の利く方なのだろう。思わず手を口に当てて見とれてしまった。小さな手はおずおずとツワブキ様が持つ蓋へ伸ばし、花びら餅をもらっていく。
「おいしいかい」
ツワブキ様が優しく頭を撫でれば、顔を赤らめて笑う子どもたち。頬を膨らませておいしそうに頷いた。かわいらしい光景だわ。
じり、と近寄って、
「ツワブキ様──」
声をかけようとするけれども。
ちょうど、子どもの一人が私を横切り、勢いよく走っていった。その子にぶつからないように慌てて避ければ小石につまずき、足がもつれる。
まずい、倒れる。と受身を流すと。
とす、と、硬い感触。
「……っと」
素早く私の身体をツワブキ様が優しく受け止めてくださった。見た目に反して、たくましい腕だった。
「ごッ……ご無礼を!」
「とんでもない。怪我はないかな」
あわあわと腕の中で身をよじると。そしたら。
そしたら。
ふわ、と。甘いなにかが鼻孔をくすぐった。
「……ッ──ぅ、」
花びら餅の匂いかと思ったけれども、そんな優しい匂いでも落ち着いた匂いでもなかった。どちらかといえば強烈で、ドロドロに皮膚を溶かしてしまいそうな刺激。
これは、
(ツワブキ様の、お着物、から)
特に袖からがひときわ強い。ツワブキ様から香る匂いを、私は、昨夜嗅いだことがあった。
あれは。
──香炉を
昨日の夜の宴会での、匂い。あのとき、香炉を持っていたのは、もちろん、ツワブキ様なわけがなくて。
──香炉を、どちらへ?
「……大丈夫かい」
バチ、と、弾かれたように我に返る。ツワブキ様は腕に支えていた私の身体をそ、と地面の上に立たせた。
「あぁ。いえ」
「よければなんだけど、きみも一緒に花びら餅を食べてごらん。すごく美味しかったんだ」
「お、恐れ入ります」
漆の蓋から一つ摘んで、ありがたくいただく。やはり、白味噌が舌をとろける感触はたまらなく好きだ。しっとりとした求肥も甘みがあってやわらかい。
「どうかな」
「はい、とても」
朗らかな気持ちになる。お茶でも淹れたらもっとおいしいだろう。寒い中、茶葉を炒る香ばしくてあたたかい匂いが私は大好きだ。
「あたたかいほうじ茶と一緒ならさぞかし」
「それはいいね。フスベは本当に寒いなぁ」
ツワブキ様は大袈裟に足踏みをして、腕を片手でさすった。そのお姿がなんだか子どもみたいで可愛らしかった。
「ホウエンはずっと暖かいですからね」
私がそう言うとツワブキ様のお顔がパッと明るくなる。
「来たことあるのかい?」
「遠い昔に。素敵なおところで」
「そうなんだ。ホウエンは本当にいいところだよ」
「ルネシティに、祖母のお知り合いがいるんです。海がたまらなく綺麗でした」
二人でひそかに笑い合う。なんて話しやすいお方なのだろう。
ツワブキ様のお声は耳に優しかった。話し方も、笑い方も、花びら餅を口に含む仕草でさえもなにもかも和らげで。
どうやらお話することがたまらなく好きなお方らしい。ホウエンのことを話せば、彼の故郷のこと、友人のことを弾んで語ってくれる。話上手だけではなく、私の返す言葉ひとつひとつ大切に耳を傾けてくれる。
夢中になってしまえば、ツワブキ様の唇まわりにはうっすら白いものがこびりついていた。
「ツワブキ様、お口に粉が」
花びら餅の片栗粉がついてしまっている。まるで雪のように。袖の内側から手ぬぐいを取り出して、両手で差し出す。
「どうぞ使ってください」
「あぁ、ありがとう」
朗らかに笑って、する、と唇を拭うと、薄く白みがかった唇の皮膚が、赤く熟れる。
その、指の先。唇の端から白が溶けると。
(……傷?)
凝視して気づいた。ツワブキ様の唇が、些細ではあったけれども、赤くひび割れていた。まるで牙で噛みちぎったように。
お部屋が乾燥していたのかしら。この時期は、すぐに手や唇が乾いてしまうから。
だから水場で仕事をする女中は皆必ずあかぎれ用の薬を持ち歩いている。こちらもおすそ分けしてあげましょう、と、もう一度袖に手を入れると、ガサ、と音が鳴った。
あ、と思い出したこと。大切な用事をすっかり忘れるところだった。
私は袖から頼まれたものを取り出す。
「ツワブキ様。こちら、ワタル様からです」
「ん。……ワタルから?」
ワタル様から預かった畳紙をツワブキ様が差し出した手に渡す。
「……あぁ、そうか」
ツワブキ様は、なにか思い当たりがあるのか、中身を開けようともせずにただ眉を垂らして笑った。
困ったかのように。かと思えばこの上なく嬉しそうに。なんとも言いようもないお顔。
「あの、中を開けなくてもよろしくて、」
ツワブキ様が目を丸くした。当たり前では無い事実を突かれたような顔だった。でもすぐに、
「ふふ、」
畳紙を袖の中にしまって可笑しそうに笑いなさる。
「大丈夫。分かっているんだ」
ゆらと、言葉を噛み締めるように。
「今は、開けるべきではない、……ってね」
こっちは返すね、と手ぬぐいを渡せば、ツワブキ様はそのままお屋敷の中へ戻られてしまう。
はらり、何かが肩や頭に降りてくる。
(冷たい感触……)
空を見上げれば、ちょうどその頃、細めではあるけれども、曇天だったフスベの空から、再び雪が降り始めていた。
