燃ゆる彗星①〜⑤ - 9/18

 

 第三話 やがて白色矮星に

 

「あれ、」

 違和感があって、首を傾げたのは別荘を使い始めてから三日目の朝だった。
 背中が、痒い。
 ベッドから起き上がって、カーテンを開けようと手を伸ばしたとき、まだ新しい寝間着の硬い繊維が背中に擦れて痛かった。
 シャツのボタンを上から二つほど外して、背中をはだける。鏡に晒したまっさらな背骨を中心に、肩甲骨あたりにかけて赤くてボソボソしたものが、白い皮膚の割れ目のようにこびりついていた。手を伸ばして触れる。ちょっとカサカサで、指の腹で撫でるとピリリ、とからい痛みが走った。
 これは、治りかけの火傷の痛みだ。
 どうやら、まだ新しい寝間着の繊維が寝返りを打つたび皮膚に擦れて、裂けて赤くなってしまったらしい。
 痛いというよりかは、むず痒い。

「お風呂、控えないとな」

 寒いシンオウ地方でお風呂に浸からないのはちょっと寂しいけど、はやくこの火傷あとが消えればいいな、って思う。
 誰にも打ち明けられない秘密なんだ。

「……、はやく、ね」

 するり、するり。カサカサで、赤みが火照るボクの背中。指で剥がれ落とすように撫でた。消えて欲しいはずなのに、思い出した感触が脳裏を過ぎる。

 雨がふりしきる夕暮れのさなか。ボクの自宅前。潮の匂い。
 トクサネの波の音を塞ぐように、玄関を閉めて、二人して暗い部屋へなだれ込む。身体を押し付けられたドア、背中越しに打つ雨の降りしきる音がトントンと響いていくけど、貪るようなキスに夢中になって、音は遠ざかっていった。
 逃がさないと、股の間に滑らせた肉厚な太もも。ボクの髪を愛おしそうに掻きむしるあの指先。茹だる分厚い舌が、ボクの歯列をなぞったときは、背筋がゾクゾクッてして、求めるように彼のうなじに手を絡めた。うなじはとても熱くて、雨で湿っていた。
 期待してしまった。きみも、興奮してるかな、って。
 止められるわけもなく、止まるわけもなく、ボクたちは二回目の行為に走る。
 隠し事はそのままにしたくて、シャツを肌蹴ることを躊躇していた。だから、部屋に来て、と誘う前は、きみを引き留めようとした声を続けることが本当は怖かった。 でも、気づけば手を引っ張ってしまった。
 怖かった? そう、怖かったんだと、思う。
 怖かったのはきみのことでも、火傷をつけられたときのフラッシュバックでもなかったはずなのに、いざきみの前にすると、火傷と一緒にボクの隠したいことをさらすことへの怖さに、変わった。
 だけど。雨に濡れた感触に、なんだかね。
 きみの真っ直ぐな表情が見れるのも最後なんだな、ってよぎる想い。雨に滴って揺れるきみの瞳に、情けないボクの顔が映ったのを見れば、どこか勿体ないと思ったんだ。
 さらけだすのは、躊躇したけど。
 それでも、きみに背中の火傷跡。触ってもらったことは後悔してない。
 いずれ、忘れることだろうだとして。
 あのときだけ、あのときだけは。きみの脳裏に、心に、刻んで欲しいな、って思ったことはボクの罪に近い。
 セックスしたあと、すべてが終わって、寝ているきみに気づかれないよう、温かいベッドから冷たい床にそっと足を滑らした。閉じきっていた傍のカーテンを少しだけ開けると、隙間から白くて静かなトクサネの光が、チカチカとボクの目を刺す。
 振り向くと、漏れ出たその光に照らされて、きみの、ベッドの上で置いてけぼりにされた一つだけの身体。安らかに眠る横顔がくり抜かれる。
 青く暗いボクの部屋に異質に浮かんだ、彼の身体が。肌が。落ち着いて呼吸を繰り返し、浮き沈みする肺の動き。散らばった赤い前髪の隙間、閉じられた目に、色んなことを語り合った唇。ベッドに染み付いた、匂い。シーツから滑りでているあの手がくっきりと色染められて。
 鼓動が早くなる。
 あの手が、触りたくなった。
 伸ばしかけた手を、だらん、と下ろした。代わりに手に取ったのは、空っぽのカバン。
 もう、忘れたほうがいい。だから最後、あの朝。
 ボクは。

 

 

 皮膚が元通りになるまでには、とてもとても時間がかかる。人間に関しては特にだと思う。
 ポケモンには個体差があって、早い子もいれば、遅い子もいた。進化の仕組みとも深く結びついていて、ココドラのはがねの表皮が剥がれ落ちる頻度が多くなると、そろそろコドラになるのかな、って分かるとか、そんな具合に。
 人間の怪我は、ポケモンたちのように簡単には治せない。傷が治るスピードは、彼らの強さに比べれば到底やわいものだ。
 火傷に、打撲に、切り傷に。
 あかぎれ、ささくれ、そして霜焼けとか。
 旅をすればするほど、膝が擦りむいたり、ポケモンの技がうまくコントロール出来なくて全身酷い怪我をしてしまったこともよくあった。
 幼いころの冒険の生傷。どれもこれも、欠かせない要素。
 にしては、今はどうだ。
 ボクの手は、採掘しているにしては綺麗だね、って色んな人が褒めてくれる。
 指がスラ、としていて、骨もそこまで角張ってなくて、手の甲の薄くて白い皮膚は、血色も透き通っていて心底理想的。指輪のせいで余計に華奢に見えると言われたときは、どう返せばいいか分からなかった。
 女性が羨んだり、男性が関心したり、様々な反応だけど、決まって最後にはみんな、「いったいどんな手入れをしてるんですか?」って聞いてくる。
 大袈裟ではないだろうか。陽の光にかざしてくまなく見ても、ボクの目に映るボクの手は、特別なものにはどうしても見えなかった。
 ボクはいつも狼狽して、うんぬん返事の仕方に悩む。実を言うとなにもしてないんだ、こだわったことは特にね。

「そういうときは、せめてオススメのクリームを教えてあげるぐらいにはね、」

 そうミクリに注意されるぐらいなんだ。せっかく綺麗な手をしているんだから、疎かにしてはいけないよ、って言いながら、呆れた顔はなんとも上品なハンドクリームを、冬が来るたびに贈ってくれる。そんな優しさの前では、もう本当に親友に頭が上がらない。
 採掘しているときは、必ず手袋をするんだよ、と注意してくるミクリ。
 でもボクは元来好奇心の強い性格をしている。だから、旅に赴くとき、気になったものはすぐに素手で触ってしまう癖がある。手でなぞること、手で撫でること、触ること、包むこと。温もりを、形を、触り心地を、実感することは特有の何かを身体に刻むため。
 手は、感じるのに一番いい方法だった。
 誰に言われたかな。いつのことだったかな。

──もっと自分を大切に、

 そんな言葉が、ふわふわと頭を掠めて反響して、はっきり思い出す前に消えていく。その声の正体はもう掴めない。
 男の人だったのか。女の人だったのか。大人? 子ども? まさか、おやじではないよな。
 ぐるぐる回るかき混ぜられた思い出たちに、ぽつん、と浮かんだひとつの光景。フスベに行く途中の道。こおりのぬけみちに入ったときのこと。
 徐々に寒くなっていく気温にホウエンにはない光景が濃くなっていった。こおりで固められた洞窟を通ったときは浅瀬のほら穴を思い出したけど、どんな感触なんだろう、と、壁を触ったときあまりにも冷たくて手のひらの皮膚がパリパリに赤く固まってしまった。
 隣を歩いていた彼の顔は、ギョッとして、酷く慌て、ボクの手を分厚くて固い手の皮膚で覆ってくれた。その様子を、ボクはじっと、見つめていた。
 ほぐすように、手の筋をなぞるように、彼は人差し指と親指を動かす。

「きみの好奇心旺盛なのはいいところではあるけどな。……ひやひやするよ」

 そういって、何度も何度もさすってくれた手のぬくもりが、なんだか心地よくて、あかぎれがひいてもボクは振りほどこうともせず、しばらくずっと、そのままにさせた。
 ぽつん、と言った一言。

「……、彗星みたいだな」

 しん、と静かな洞窟に、ボクのその言葉が吸い込まれていく。彼から返事はなくて、面を上げるときょとん、としていた。それもそうか。何も繋がり見えない話に、ついてこれないのは一回二回のことじゃない。
 いつものお決まりか、みたいな顔をして彼は優しく目を細めると、続けて、と笑った。

「きみは、見たことあるかい」
「いや」
「彗星の行き着く場所はね、死とともに太陽がいるんだ」

 ボクは、彗星の姿を見たことがある。ホウエン中の話題をかっさらったその彗星は、世界的に珍しく、各地方でも見ることが出来る何百年ものの見事な彗星だったらしい。
 夜、毛布とあたたかいコーヒーだけを抱えて、トクサネで一番人気のない静かな浜辺に横たわった。砂がジャリジャリ頭を掠めながら、手持ちのみんなと一緒に空をじっと眺める。
 黒く広がる空。散りばめられたキラキラな星。合間を縫って、ゆっくりと横切っていく彗星の光。
 やがて海から身体を持ち上げる、姿の見えない太陽に向かっていった。溶かされていく大きな彗星は、目指す反対方向に薄く光の尾っぽを伸ばしながら、やがて朝に近づけば真っ白にいなくなってしまった。
 あの彗星は、もう、いない。死んでしまった。

「素敵だと思うかな、きみは。徐々に溶かされて、止まることは出来ない。それに、死ぬときに一緒にいる相手は、手に届かず、自分を殺す相手でもある」

 彼の真っ黒に塗りつぶされた目を見つめた。まるで、光の消えた星空のような深淵。彼が何を考えているのか、ちっとも分からなかったからこそ、すらすらと言葉が続いた。

「目指した場所が死に場所かもしれない。それなのに、彗星は恐れも知らずに尾を描いて近づいていく」

 彗星だけが、太陽のそばに近づこうとする。その果ては、消えることも知らず。

「……普通は、近寄り難いのに」
「どうして、そう思うんだ」
「寒い土地から暖かい場所へ向かう。その途中、彼の熱になにもかも奪われたとして、」

 する、と、握る手にもっと深く指をからめる。少しずつ顔の距離を近づけて、声を潜ませた。耳元で囁く。秘密めいたことを明かすように。

「もう戻れないことが、怖いからさ」

 きみは、やっぱり黙っていた。黙って、目だけでボクをじっと見ていた。
 ボクはそんな彼の表情を誰かから隠したくて、そ、と唇を重ねる。触れた柔らかい唇は、少し冷たくなっていた。