燃ゆる彗星①〜⑤ - 8/18

「ぅ、うう……」

 頭がグラグラする。目はショボショボだ。
 胃の奥をスプーンかなにかでぐるぐるにかき混ぜられるような気持ち悪さに足がよろけて、大きな橋を渡った先にあったベンチにしがみついた。
 別荘に戻れそうにない。これでエアームドやメタグロスはおろか、船さえも、揺れる何かに乗って移動すれば、胃のもの全部ひっくり返してしまう。
 はっきり言って、飲みすぎたし、ペースも間違えた。日本酒の飲み方って、絶対あんなんじゃないし、豪快に飲んでも平気な彼らたちが信じられなかった。一杯目ですでに意識がグラッときたから、何杯飲んだかもう覚えてない。わからない。
 止めてくれる人がいないって、こんなに困るものなんだなあ。
 すっかり真夜中なミオシティでは、出歩いている人なんてほとんどいなかった。とても静かで、ただ海に流れる潮の音がさぁさぁと聞こえてくるだけ。
 遠くの方、市場の方だけが喧騒に溢れていた。
 ベンチに身体をうつ伏せで横たえた。万が一吐いても大丈夫なのように、顔だけを横向きにして。
 マフラーを枕代わりにしようと思ったのが、エアームドに渡していたことを思い出す。
 そのとき、ツン、とコートの裾を引っ張られる。後ろに顔を向ければ、ベンチでくたびれていたボクに、嘴で心配そうに突く姿が見えて、微笑んだ。

「エアームド、おかえり……」

 うつ伏せの身体をひっくり返してエアームドに手を伸ばした。頭を撫でる。冷たくて、アルコールで火照った肌にはすごく心地よかった。

「楽しかったかい? それはよかった……すっかり冷え冷えだね。疲れてないかい?」

 そう言うとエアームドがマフラーの先を器用に引っ張って、ボクの方に返してきた。お腹あたりに柔らかく被せてきて、そんな優しさにじわ、とあたたかい気持ちになる。

「ボク、ちょっと身体を冷やしたくてね。もう少しだけ待っててもらってもいいかな」

 エアームドはボクの手にぐいぐい頭を押し付けると、短く鳴いた。

「ふふ、ありがとう」

 空のモンスターボールを手に取って、エアームドをしまう。ベルトに固定して、マフラーを頭の下に置いた。
 そこで気づく。ちゃんと見上げた夜空には、眩い光がキラキラと輝いていた。今にも落っこちてきそうなぐらい、たくさん。

「星だ」

 ホウエンとは違う星座がある。
 トクサネから見える星空はとても空気が澄んでいるおかげで光はひときわ眩しいのに対し、ミオシティの星の数は多いけれど、ひとつひとつの光は大人しかった。
 トクサネシティの夜空の星は、見上げるたび星が勢いよく剥がれ落ちてきそうだな、って思う。光の強さは違うけど、ミオシティもそうだった。
 大気圏を抜けて、やがてバラバラにされる星たちは光を失っていき、そこらじゅうに散りばめられるだろう。
 地上や海に墜落した瞬間、光は消える。
 いん石となって。星のかけらとなって。そしたらもう、光を失ったそれは、星と呼ぶにはふさわしくないのかもしれない。
 ボクはどうだろう。
 ミオシティの空気に触れて、ミオシティの空気に溶け込んで。そしてボクはやがて消え去って。
 チャンピオンとしてのツワブキダイゴ。
 デボンコーポレーション御曹司としてのツワブキダイゴ。
 取り巻く皮膚すべてが消えた土地で、ボクの身体を知る人はいない。
 ボクの身体はどこへ流れて、委ねて、そのまま。
 溶けた身体が、心が、またボクの形になるまでなにがあって。そしてその先に、なにがあるのだろう。
 ボクは、やがて何になるのだろうか。
 目をつむると、海辺の潮の匂いに静かに流れる風の音が濃くなっていった。

「ここはどちらかというとカイナシティに似ているなあ」

 誰に言うことなくぽつりと呟いた言葉は、海の流れる音でかき消される。
 コーヒーの匂いがもし漂ったら、ボクは今そこにいるんだな、って騙されたかもしれない。あそこの景色は特別なんだ。
 誰かと対峙するのにもってこいの場所だから。
 あそこのカフェで、人を誘ったことがある。
 りゅうせいの滝で大怪我をしてしまったことがあって。助けてもらったそのお礼にコーヒーを奢ってあげた。それが彼との初対面だったけど、まだそんなにお互いのことを知らなかったから、まず話すことが大事だと思ったんだ。
 大切なことにはお礼を。お礼には、ボクのかけがえのないものを分けてあげる。
 出会いに感謝を。喜びを。それがボクの礼儀だったのに。
 それなのに。 

──いらないよ

 ボクの与える好意に渋い顔をした。さらには拒否をした姿なんて、生まれてから一度も見たことがなかったから、とても見蕩れてしまっていた。
 いらない、ってことは必要のない、ってこと。
 嘘だろ、って思った。自信満々に渡したものだったのに。特別なひと品だったのに。キラキラ見えていたものが、彼にとっては別の形に見えているんだって分かったとき。
 自分の世界にあった当たりまえのことがボロボロに崩れてしまった。
 ボクの皮に、建前に、名前をつける人がほとんどだったなかで唯一、そうしなかった彼だけは、異質なものとしてボクの世界に突然現れた。
 だから今でも気になっている。

「彼にとっては」

 はたしてボクは何に見えているのだろうか。
 ぼー、とそのまま空を眺めていた。すると離れたところでドッと笑い声があがる。
 お酒で顔を真っ赤にさせた外の人たちが、お互いの肩を組み、ボクが横たわるベンチには目もくれず、市場の方から大きな橋の方へ歩いていった。
 身体を右へ左へ揺らし、足をヨロヨロさせながら顔を蕩けさせて笑いあっている。陽気に歌を歌いながら。
 それはボクの使う言葉ではなかったけど、不思議と内容がすらすらと入り込んできた。

” いたずらに わたしたちは歌い
むだに夜ごと遊びに熱くなった
昔を昔のこととして 断ち切れたら
こんな夜も消えうせただろうに ”

「不思議な歌だ……」

 くしゃみをひとつして、ボクは起き上がった。肩をさすって、もう一度空を仰ぐ。キラキラ輝く星たち。
 歌は遠ざかっても、ボクの鼓膜の中で反響を繰り返す。気づけば一緒に口ずさんでしまった。

” 長い道のりをゆく 月に照らされて
遥か彼方へ響き飛ぶ歌と一緒に
昔の思い出を抱えた 七弦で奏でた歌と一緒に
夜な夜なわたしを苦しめた歌と一緒に ”

「ねぇ、もし、きみが必要になったときのために、助けになればいいな、って、ボクは思ったんだよ……」

 誰に言うことも無く呟いた言葉に返事はないはずなのに、頭の中でぽつりと浮かんだ声。

──必要ないんだ、おれにはな

 ボクが贈った言葉に、特別なプレゼントに。返事の続きはたったそれだけで、そのときの彼の顔は、今でもよく、覚えている。
 砂利でも飲んだかのような顔をして、ボクのことを否定した。言い換えれば「ボクの助けなんていらない」といったところか。
 必要ない。いらない。与えられなくても困らない。
 それもそうだ。彼は与える側の人間なのだろう。しかも無自覚だからタチが悪い。
 いつかちゃんと話してあげないとな、とは思いつつも、彼の生き方というものを見ていると、ボクがああだこうだ話したとしても、彼の道が、彼の感情が、意思が、曲がるなんて絶対にないだろう。
 分かりきったことだった。だからこそ、危険だな、とも思った。毒だとも思う。
 太陽の光だな、って言えばいいのかもしれない。ボクにはホウエン地方を襲いかかった日照りの力にも勝るおぞましさにも見えた。
 あたたかくて、心地よくて、ボクたちの住む世界を豊かにしてくれる命の父は、ちょうどいい天体距離を保ってくれるからこそそんな優しい一面を見せてくれるだけであって。
 もし、もし。その奥底に秘めた危険を知らずに飛び込んだ無邪気さが、あったとしたら。

「それは、きっと」

 自分の目指していたものが肉体もろとも溶かされて消えて、そして、光のおぞましさに気づいてしまえば泣き喚いてしまう。
 ボロボロに撒き散らしたかけらが、もう元の形に戻せないと知ったとき、憧れは恐怖に変わってしまう。それってさ。

「……知らない方がいいだなんて」

 誰にも理解されないんだろうね。
 光というものは、孤独を作り上げるものだ。
 彼の光は、そういうものだった。でもその光はやっぱり、恵みであり、ありがたいもの。みんな大好きで、愛されている証拠。
 対して。

「ボクは……」

 ボクはちゃんと残せているだろうか。
 残せたとして、どんな形で、どこに埋もれているのだろうか。
 美しいものであるのだろうか。

「本当に、綺麗だな……」

 星を見上げるたびに、見えているこのすべてがボクの知らない石だって考えると胸がドキドキしてしまう。
 ボクの知らない、歩んできたことのない空間であり、時間。
 星は手に届かない境界。石は手に入れられる境界。名前と形は違っても、どこか似ている。
 キラキラと輝く様々な石たち。シンオウでは、きっとボクの見たことのない素敵な石にたくさん出会えるだろう。
 もちろん石だけじゃない。ポケモンも、人も。
 そして、それを通してボク自身も。なにか新しいものに。
 ボクの区切りでもあり、明らかな変化が芽生えたのは、最後の防衛戦だ。まちがいない。
 あの子に出会って、バトルをして。
 大事な子たち、愛おしいボクのかけがえのない自慢の子たちが、六体、ズタボロにされて。そして負けた。
 負けたとき、頭の中が塩水で洗い流されたような感じだった。
 熱くて、痛くて、握る拳に自分の爪がくい込んでしたたる血液はとても熱く、心臓はその熱で蒸発しそうなぐらい鼓動がうるさかった。
 それなのに……矛盾しているかもしれないけど、心も、脳も、さっぱりしていて清々しかった。
 悔しかったけど、嬉しかった。
 苦しかったけど、楽しかった。
 だから、その滅多に出会えない気持ちを誰かと共有できたとき、本当の自分を思いがけず見つけられた気がしてたまらなく幸せになった。
 他の誰でもない。きみとだ。

「……──、」

 名前を呼ぼうとしてやっぱりやめた。かぶりをふって、瞼を閉じる。頭の中で思い浮かべた、採掘したときに出会った石たち。それをすべて、新聞紙でくるんでしまえば、カンテラで照らされて反射していた光はすっかり消えてなくなる。
 それなのに。

「きみはずっと、消えてくれないな」

 困ったものだよね。
 目を瞑っても、耳を塞いでも、いつもボクの心をチリチリに焦がす輪郭と、繰り返し響く声がいまでも忘れられない。
 あの目。あの声。あの、手のひら。
 出会った瞬間をきっかけになおさらきみと、もっともっと、色んなことを共有したくなったんだ。
 引き寄せられるその強い光に隠された、影。
 知りたい。たくさんのことを聞きたい。話したい。
 きみはどこから来て、どんな道を歩いてきて……そして。
 いったい、どんな人なんだろう、って。