三、氷道
道は、いつだって険しく、高く。
揺らぐはずもないかけがえのない自信というものを心にひとつ留め、持ち続ければ身体は丈夫だと信じて疑わない。
その玉を手にするまで、どれだけ血豆を作らなければならない境地だったとしても、苦痛だとは思わない。
それが己の証であり、己の生きた道であり、振り向けば、確かに自分が歩んできた道には、足跡がくっきり残っていた。自分が進んでいるのは明らかだったのだと。
それでも額縁に嵌められている、教訓を忘れてはいけない。
安堵は油断になることを。
自信の過度は欺瞞の一種であることを。
打ちのめされるだなんて誰しもが思わない。未来はいつだって不可視なのだから。
とある日。敗北の日。
あの、少年に負けた歓声の日をきっかけになにか変化が起こった。
振り向けば、雪景色。
雪に埋もれて見えなくなってしまったかつての足跡。自分が今どこにいるのか分からず、実はすべて幻覚だったのではと確認すら出来なくなってしまった道。方角を決める前に足は埋もれる。
さんさんと降り続ける雪は積もる。俺を埋めようとしてくる。
どこへ赴くか分からない足はただ立ち止まることしかできない。
どろりとしたものが身を包んでくる。下から俺を沈めようと、それは次第にかさを増してくる。
抗うことなんてしない。だが。
にしては湿っぽく重苦しくて。
喉はカラカラに乾いていく。
「ッ……」
ぱち、と。目を覚ました。ホテルの一室のベッドに俺は確かに横たわっていた。
汗がドッと出る。何かを我慢してたかのように、熱がどろりと流れたかのように。
ムクリと起き上がって、しばし思考を止める。ズキ、と、痛みが走って呻く。
先日のトレーニングで無茶というヘマをして負ってしまった傷が傷んだ。悪夢はおそらくこれのせいか。
眉間を抑えて息を深く吐いた。軟弱だ、とまでは言わないが最近こういったものが多い。
自分を追い詰めているわけでは決してない。だけど後ろからトントンと迫りよるなにか、焦燥感に似たものから逃げるような気分だった。
「……逃げる、だって?」
俺が。まさか。乾いた笑いが漏れた。
ベッドの横に手を伸ばした。グラスに水を注いで喉に流し込む。喉も胃も、すっかり乾燥していた。夢が夢でなかった証拠。
ついでに時計を確認する。まだ夜明け前だった。
「……眠れないな」
ベッドに横たわり、備え付けのラジオに手を伸ばした。適当に波長を合わせても、とっくに深夜を回っているわけで。ほとんどの局番は砂嵐の音で満ちていた。
ぷつ、と、急に音が滑らかになる。
女性の綺麗な声と落ち着いた老人の声が聞こえてきた。ゆるやかなBGMを背後に、二人はとある和歌について討論をしているらしい。
『ひさかたの ひかりのどけき はるの日に しづ心なく 花の散るらむ』
女性が綺麗に読み上げた和歌は、あまりにも有名なものだった。
『先生は、どう解釈しますか?』
『そうですね。なんて美しい和歌だな、とまずは言えます。春のうらら、そして、春の儚さに、気付かされます』
『儚さ……つまり、美しいものに永遠なんて無いと』
『そう、ですね。そうとも言えます。どんなに穏やかに見えても、その穏やかさの裏には必ず虚しさという……そんな裏表な関係なのでしょうと』
『深いですね』
だらだらと二人は自分なりの解釈を思いのままに語り合っていた。俺は、それをぼんやりと聞くだけだった。
『みなさま。冬は長く、春はまだ先です。寒さは続き、氷はしばらく溶けないでしょう。ですが、この和歌が描く春の美しい桜の様子を思い馳せながら、今夜も、春を待ちわびて眠るポケモンたちと一緒に、安らかに眠れますように』
そうして女性が丁寧に言うと、背景に流れていた音はゆるやかに消えていった。そしてまた砂嵐になる。
ラジオを切って俺は寝返りをうった。カーテンは締め切っている。部屋は真っ暗だ。
目を、閉じた。
今日のトレーニングの内容を細かく思い出して、反省、そして次の課題を考える。止まるわけにはいかない。
止める、わけにもいかないから。
強い人間に会いたい。会って、戦いたい。思考が脳に溜まるのは良くない兆し。だから、好戦的に挑んで常に空っぽにしておきたかった。
次の桜が咲く前までに。冬は、修行をするに絶好の時期なのだから。
目を開けた。突然、声が降ってきた。
──また、会えるよ
あの男は、どうだろうか。
一度勝負してみないか、と挑めばこの思いは少しでも晴れるのだろうか。
彼は強い。心の奥底からそれは分かった。まだ彼のポケモンを一目も見てはいないが、長年の経験のなにかで確信を持って言える。
戦って、みたい、とは思った。けど病みあがりだったわけで、なにぶん、彼は隕石に夢中で勝負どころではなかった。
おそらくタイミングの問題であって、それ以外の何ものでもない。
「……チャンピオン、ホウエンの、……か」
また寝返りをうって今度は天井を仰ぐ。両手を組んで頭の後ろに回した。
新聞に、堂々と写っていた彼の写真は、確かにホウエンリーグの頂点に立つに相応しい自信溢れる表情でいた。
インタビューの内容は読んでなかったから、彼が何を語ったかは知らない。が、実際に会ってみて拍子抜けした。
自分が思っていたより、どこか子供っぽさが抜けない、……ひたむきに純粋な目をした、キラキラした男であったことがそのときはじめて分かった。
気には、なっている自分がいる。
モヤモヤとした、とは違う、しこりに似た気持ち。だけど、彼の目には何が見えているか、聞きたくなった、気持ち。
執拗にお礼を押し付けてくる態度と、人の心の隙間に入り込んでくるのを躊躇わない姿勢に、戸惑ってしまった自分のほうが先日は際立っていた。あんな人間、俺は知らない。
あれは、人の好意を頭から被ってつま先まで浸かってきたからこそできることだ。
「……」
少し思考を止める。
目だけで横を見た。空になったグラスに、ペットボトルの水。音を無くしたラジオ。そして、その隣。
結局返せなかった隕石は、あたかもそこにあるのが当然の結果だったように居座っていた。
暗闇にそれは光を吸収しない、ただの石。だけど、彼が「隕石」という素晴らしさを説いてしまった時点で、俺にとってもそれは「星の一部」であり、「世界の一部」なんだろう。彼の言葉を借りるならば。
また、思い出す。彼のことを今度は細かく。
三日前の、カイナシティ。二人しかいないさざ波で満ちたカフェは、コーヒーの匂いが漂っていた。
俺の前に座る、潮風に吹かれた前髪は透きとおった銀を反射させ、ガーゼの消えた額には膜のような皮膚が張り付いていた。血色はいいが、骨は細め。男の身体を有してはいるが、どこか不安になりそうなぐらつきがあった。
声は鋭く、はっきりしている。
そして、色素の薄い、だけど真っ直ぐな色をした瞳はひたすらに輝いていた。
俺とは何も違う環境と、道を歩んでいた先の景色はいったいどんな景色なのか。
ゆっくりと、目を開けた。
砂嵐で満ちているはずのラジオの電光板は、深夜を相変わらず知らせている。借りた部屋もまた暗く、そして、静かだった。ここにはポケモンたちもいない。
また目を閉じる。彼を一言でまとめるならば。
まさしく、ホウエンの男だ。
自然溢れ、緑に満ち、水は美しく、暖かい風に包まれた、何もかもから愛された男の笑顔は、俺が知るはずもない感性を育て上げたらしい。
その男が辿り着いた高み。きっと俺には見えていない景色。
彼は言った。「共有」したいんだと。
あの言葉の意味、さの言葉の意味。ぐるぐると回る彼の声は俺の頭を絡めて絡めて、ついに腑に落ちることは無かった。
どういう意味で、俺に声をかけたんだろう。会えると思ったんだろう。会って、話をして星のかけらを渡したんだろうか。
そして。
──ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しづごころなく はなのちるらむ
彼なら、どう解釈するんだろうと。
パチ、と、目を今度は大きく開く。視界が少し明るくなったということは、瞳孔がキュ、と開いたのかもしれない。
何を考えてるんだ。
かぶりを振る。かき消すようにまたゆるりと目を瞑った。
頭の中では先程の和歌が繰り返して聞こえてくる。
彼の言葉も、絡まりあって、溶けていく。
次に目を覚ましたときは、すっかり明るくて太陽の光がカーテンの切れ目から差し込んでいた。
