日が沈むちょっと前、別荘に真っ直ぐには戻らずボクはミオシティに向かっていた。エアームドの上から見下ろす街。海へ向かう船がちょうど通ることから羽を広げるように、大きな橋が身体を真っ二つにして空に向かって持ち上げていた。
金具がキリキリと音を立てる橋にぶつからないようエアームドを誘導する。図書館の前の噴水に降りれば、潮の匂いが広がってきた。
船が勢いよく橋の下を通り過ぎる。水しぶきを上げて、あっという間に小さくなってしまう。エアームドがその様子をじ、と見ていた。
「ホウエンの船を初めて見たときも、きみはそうだったね」
エアームドの故郷はえんとつやまに近い。海と縁の遠い場所に暮らしていたエアームドにとって、物珍しいものなんだろう。
「どうする? ボクは中に入るけど……シンオウの海を楽しんでくるかい?」
擦り寄ってきたエアームドの頭にコツン、とおでこをぶつける。はがねの皮膚は、シンオウの空気に冷やされて、とても冷たかった。
嬉しそうにエアームドが喉を鳴らす。ボクはマフラーを脱いで、エアームドの首に巻いてあげた。また嬉しそうにエアームドが鳴き声を上げた。
「いっておいで。エアームド」
ボクのその言葉を聞いて、エアームドが羽ばたきを一回、二回、そして空高く飛んだ。
見上げる。あの子はくるくるとボクの頭上を回り、また甲高く鳴き声をあげればミオシティの海の方へ飛んでいく。
「暗くなりすぎる前に、戻ってくるんだよ」
そう言葉を残して、ボクは図書館の中へ入った。
三階に上がると、子ども用の書籍がズラッと並んでいた。閲覧用のテーブルの椅子には小さいトレーナーが何人か座っていて、大人のボクに驚いたのか、顔を合わせてひそひそと話している。
横切って奥の方へ入ると、少し古臭い色の本棚が連なっていて、緑色の本がたくさんささっていた。指でなぞっていく。
「たしか……幼いころに読んだ絵本があったと思うんだけど」
子どもにも取りやすいように、背丈が低くなっている本棚を追いかけるのは少し大変だった。腰をかがめて右へ右へと行くと、目的のものが見つかる。
「これだ、これ。……あれ、一巻がない」
棚にひと続きで並んでいるシリーズものの絵本を指で追ってなぞると、ちょうど一冊だけ隙間ができていた。後ろの巻を指で引っこ抜いてパラパラと捲ると、やっぱり。
ボクが小さいころによく読んでいた絵本のシリーズで、ちょうど今ここにない箇所が、一番気に入っていたお話だったはずだ。
ボクは絵本を一冊手に取って、一階に降りる。受け付け前のお姉さんが、忙しそうにパソコンとにらめっこしていた。
「『シンオウむかしばなしその一』って、ありますか?」
ボクの声に気づくと、パッと顔を上げてにっこり笑った。
「少々お待ちください。……貸出中ではないので、おそらく館内で誰かがお持ちなのかと」
「そうですか。……ありがとうございます」
ないものは仕方ない。急いでいる訳でも無いし、小さいころに読んだその懐かしさをなんとなく味わいたいと思ったきまぐれだ。
いずれは返ってくるだろうからと、ちょうど小腹が空いたこともあって絵本を元の場所に戻せば、ボクは図書館をあとにした。
平日夕方の市場はとてもにぎやかだった。
左右に並ぶたくさんのお店を覗き込んで、物珍しい食べ物やお土産を堪能する。ときおりお店の人にオススメのものを強く推されたり、試食を楽しんだりしながら、ごった返しになっている通路の途中で、ボクはとあるお店で足を止めた。
まだ夕飯前だからなのか、店の中は騒がしい人々から切り離されたように静かだった。お店入口すぐ横のカウンターの席に座って、メニューに手を伸ばす。
「これをください」
「……これを? あんたが?」
体格のいい店主は振り返って、ボクが指さしたそれに目をまん丸させた。
「友人に勧められたんです。食べるべきだって。……おかしいですか?」
「おかしいっつうか。もう知っている人なんかいないよ。よぼよぼのじいさんとかが、朝はやくに日本酒と一緒にチビチビ食うようなもんだな。兄ちゃんみたいな人が食べるとはねえ」
店主が上開きの冷凍庫を開けると、中から手のひらサイズの瓶を取り出した。蓋を開けて、菜箸をくるくる回して中身を練っている。あれが、ヒョウタくんが話していたミオシティの名物なのだろう。粘りっけのある、お酒のおつまみらしい。
「あんたの友人さんは物珍しいな」
「物珍しい、って、そんなに?」
「まぁミオで発酵したここでしか食べられないもんさ」
そう言ってすぐ出された小皿には、鼻をツン、とさせる塩辛い匂いがした。箸を取り出して、一口頬張る。
「んぐッ」
しょっぱい。喉がグッと搾ってしまいちょっとだけ嘔吐くと店主が腰に手を当てて笑った。
「はははッ、顔がしょっぱい、って言ってるぞ。日本酒、飲むかい」
店主がそう言いながらカウンター奥の方の冷蔵庫に手を動かしていた。瓶と瓶がぶつかり合うガチャガチャとした音が聞こえて手をあげて慌てて、
「いえ、ちょっと……それは……」
「ここは汗っかきが多い街だからなあ。食べるなら早く食べて逃げた方がいいよ。細くて折れちまいそうだよ。あんた」
「汗っかき?」
逃げるって、なにから。
「そろそろだな」
店主が顔を上げたと同時に、市場の方から次々と体格のいい男の人たちが入ってきてギョッとした。ヘルメットを脱ぎながら、腕まくりをしながら、暑そうにシャツをパタパタする人もいた。五人、十人。いや、もっといるな。がらんどうだった店はどんどん狭くなっていって、カウンターのボクは縮こまってしまう。ドカッ、と遠慮なしに隣の椅子に座ってきた男が口を大きく開けて笑った。
「おう、おう。兄ちゃん。そんだけかい?」
ドカッと、もう片方の隣にも誰か座る。挟まれてしまった。
「もっとくいねぇ」
「どこから来たんだ?」
後ろのテーブル席に座った人にも力強く肩を叩かれる。逃げるってそういうことか。
いかつい身体。いかつい声。すっかり囲まれてしまったボクはもみくちゃになってしまう。あたりは一気に騒がしくなって、ボクの声は届かない。
「──ッです」
「聞こえねぇな!」
「ホウエンからッ!」
まずいな。いつの間にかボクの前に用意されたジョッキにお酒を注がれてしまった。待って、これ日本酒なんじゃないか。日本酒ってジョッキでも飲むものだっけ。
男のうちのひとりが、勇ましく立ち上がった。騒がしかったむさ苦しい声が一瞬静まって、
「汗水垂らし、血肉を分かち合う同郷とのこれからに」
その声を合図にたくましい腕たちは、おのおのジョッキを持ち上げると、
「乾杯ッ!」
ガチン! という音があちこちでぶつかった。地割れしそうなぐらいの勢いだ。
ボクも誰かのジョッキにぶつけられた迫力に負けて慌てふためく。情けないことに椅子から転げ落ちそうになって、ボクの手では支えきれなかった相手のジョッキから、お酒が零れてしまった。
「仕事が終わったんで、ここで酒を飲むのが日課でな」
汗っかきが多い、ってそういうことか。椅子から滑り落ちそうになったボクを、男のうちの一人が支えたはずみに引っ張られてしまう。カウンターからテーブル席に移動したボクを、ドカドカと体格のいい人たちが囲んできて、なんだか岩に閉じ込められたような気分になった。ボクの隣に座る男が、口を突き出してヒュウッと吹く。
「いい手をしてるな。俺たちと一緒の手だ」
関心した彼はボクに日本酒入りのジョッキを掴ませてくる。力強かった。
「あなたたちと?」
そう言って、その人は白い歯をニカッとさせると、大きくて皮がゴワゴワな手のひらをボクにみせてきた。そして母指球あたりをトントン、と指で示す。その指の関節には赤く腫れているマメがこびりついていた。
採掘をする手だ。工具に手馴れている手。
なるほど。同じ穴のなんたら、とでも言いたいのかな。でも。
「……いえ、」
かぶりを振って微笑んだ。
「……まったく、違いますよ」
確かにボクの手の皮膚に関しては、見た目よりずっと固い。手の甲の皮膚が薄いから勘違いされやすいんだけど、採掘しているおかげで特に母指球あたりの皮膚なんて、結構肉厚だったりする。
ボクとはじめて握手する人がだいたいびっくりするのは、ボクが見た目に反して意外と力強く握ってくるのと、母指球あたりの皮膚が硬いせいで相手の柔らかい皮膚をゴリ、と潰す感触がするせいだとのこと。
それをミクリに聞いてから、特に女性相手には気を遣うようにした。おかげさまで母指球より、指輪二つの冷たい感触に驚く人の方が増えた気がする。
ボクは遠慮する方の人間だ。でもこの人たちは。
「さあ、今度こそしっかりジョッキを持ってくれ」
差し出してきた手をひとりひとり握り返した。相手は、誰一人もボクの皮膚の感触に驚かない。つまり、ボクよりずっと、母指球あたりの皮膚も、指の関節も、手の甲ですらもがっちりしているってことだ。
腕っ節がいいから、こういう手ができる。ボクは腕の筋肉はほとんどついていないから、この人たちほど手の骨とか、筋とかは硬くはならなかった。
「あなたがたは、どちらから?」
ボクが聞かれた質問を、今度はボクがみんなに同じように聞く。ジョッキを中途半端にあげたまま、みんな顔を見合わせて目をぱちぱちさせると、によりと笑って声を揃えて叫ぶ。
「我らがこうてつじまだ!」
たくさんのジョッキが、ガチンッとぶつかり合った。腕っ節のいい勢いに、なみなみ注がれた日本酒が散り散りに舞う。
「ふふ、素敵な名前だ」
屈強な腕が持ち上げたジョッキのひとつにボクも自分のジョッキをガチンとぶつけて、日本酒を一気に煽った。
