眩しい。
──……
海鳴りが、聞こえる。でも海鳴りにしては優しい。耳に、薄い膜が張っている感じ。水底に足だけが浮いた状態で漂っているみたいだ。
──、ぃ……
膜を通して、何かが揺らめく。瞼を何度ぱちぱちさせても、白い海底が、ボクを包み込んで、地がぱっくりと失う。ぼー、とする。
──だいご
三つの音。身体が重いような軽いような。浮力に任せて上がったり、水圧に負けて沈んだりする。そのたびに、海鳴りが瞼を引き上げる。
ゆらゆらと。それからしばらく漂っていると、引っ張りあげられた。
突然に。乱暴に。にしては、やわらげに。
「ダイゴ」
ぱちん、と頬を叩かれた。重力がグリン、と回って、身体を包み込む重さを感じた。
確かに、ボクは横たわっていた。
まっさらのシーツの上だ。クリーム色の天井が見えて、そして。
「ダイゴ」
心配そうな顔。黒い目が揺れるのが見えて、ピントがようやく追いついてきた。
ワタルがベッドの脇に座っていた。服もきちんと着て。長ズボンに、半袖のシャツ。ボクも、新しい寝間着に着替えられていて、肌はサラサラしていた。
すべてが幻だったかのように、綺麗さっぱりだった。
記憶が、途中で、ない。
「……ぁ、……」
眩しい。
「あさひが、」
身体から剥離した声は、ボクの声じゃないみたいにかすれるだけ。
「……声、ガラガラだな」
「誰のせいで」
「お互いさまだな」
腰が、重い。
喉が、乾いた。
耳が、口が、鼻が、唇が、皮膚という皮膚が痛い。筋肉という筋肉が悲鳴をあげている。起き上がろうとすると、ツキン、と股の間に痛みが走った。
指一本も動かせなかったことに、まるで全身麻酔を打ったような気だるさだった。
でも、脳みその奥の奥まできもちよかったな、と、心は正直に漏れているからどうしようもない。
ボクがぽけ、と天井を見ることしか出来ないことを察して、ワタルが眉を下げて笑う。優しくて甘い、困り顔だ。
前髪を下ろしていると、ますます、眉間のシワが隠されるから、幼く見える。朝だけの特権だ。今だけは、ボクの特権。
「水、持ってくる」
ベッドが軽くなった。ワタルが立ち上がって、すぐに戻ってくる。
「起き上がれるかい」
ムリ。
「それなら、強硬手段だ」
ワタルが、グラスに水を注ぎ、口に含んだ。
「んッ……」
そのまま、口移し。ゆっくりと喉に流し込む。
「ッ……」
「ふ……、」
上手く飲み込めなくて、少し溢れた冷たい水は、唇を濡らし、頬を伝って、やがてまっさらなシーツに垂れる。
氷水に浸していたレモンの匂いが鼻腔をくすぐって、キンキンな冷たさが喉を潤す。さっぱりする。
「どうだ」
ワタルが、口を離してそう言った。
目も脳もすっきりしていく。ボクは目線を上に流した。
まっすぐと、ボクのことをいたわるきみの表情を見て、……じっと見て、ボクはようやく口を動かした。
「……もう一度、」
口元に耳を寄せてきた彼は、どうやら、まだボクの要求をわかってないみたいだった。
「暑いから、……窓を開けて欲しくて」
今度こそ、ちゃんと言葉にできた。
ワタルは頷いて、ベッドから腰を浮かせた。
なんて素直に受け取ってくれるんだろう。ボクの言葉一つ一つを。
セックスをしたあとはいつも、きみはふんだんに、ボクを甘やかす。
そんな態度を見せつけられるとさ、セックスしているときは、きみにとっての何か後ろめたいものに見えてしまう。不安とまではいかないけど、ボクたちのこの、お互いを探り合い、貪り合う行為というものに意味が果たしてあるのかと、ときおり思ってしまう。
口説き文句も、誘い文句も、今の流行りにきみは靡かない。そんなのは、よく知っている。
じゃあ。だから。きみの変化を誘い出すには、言葉より行動の方が早いとは思う。
「海……」
海が見える。
大きな窓からは、浜と海の境界がはっきり見えるほど、とうに陽は高くなっていた。
ボクはさっきまでどこにいたのだろうか。
指で自分の唇に触れる。ふに、とした柔らかさ。ぽってりと腫れた、噛み付かれたあと。そして、ぴりり、とした痛み。
まだ生きている。まだ覚えている。
ワタルの背骨の感触。そして、ボクの肉とワタルの肉が溶け合う心地よさ。
昨日、あのまま二人で海に溺れていたのなら、ボクたちの肉はそのまま混ざりあい、骨だけが落ちて海底に遺っていた。
「……見届けたかったな、本物の、化石」
なんて。
「ワタル、……ねぇ、ワタル」
優しく呼びかければ、大きな窓を開けている手を途中で止めて、振り返った。
風がブワッと、入り込んで、きみのまだ乾ききっていない前髪を揺らした。
テラスドアの向こう側では、ウッドデッキに置かれているビーチチェアの足が、一本折れて、傾いていた。
まるで、博物館の展示物のように、異質に置かれている。
そのとき、ふ、と、この島で見つけたフレーズを思い出す。
「ワタル」
今は使われない、化石のような言葉。だからこそ、きみに言いたくなった。きみにだからこそ。
毒を捻り出すには、思考が一番。湿気くささがあれば、さらに効果的だ。
──Venio ad te, ne solus sis.
(きみがひとりにならないように、ボクがきみのところへいく)
──Etiamsi me desereres, tamen non desperarem.
(きみがたとえボクを見捨ててもそれでもボクに傷を残すことはできない)
──Quid vicis est dulcius?
(変化ほど甘美なものはないから)
朝日が眩くて、一瞬だけ窓辺から差し込んだ光がきみを白く染めあげる。
遠くには、誰もいない海が波で弛んでキラキラと光っていた。潮の匂いは、これから立ちのぼって、ここまで届いてくるだろう。
それまでに、ねぇ、ワタル。返事を。
「どういう意味だと思った?」
「……」
ワタルは相も変わらず、その真っ直ぐな目でボクを見つめていた。だけど、その奥で、なにか燃えたぎるものがグツグツと煮えているように見えた。
あぁ。そうか。……こうすれば、きみは動揺するんだね。
「訳すとね……」
きみは、口を固く結んでいた。少しも動いてないはずなのに、確かに諌める声がどこからか聞こえてきて、ボクはにやけてしまう。
満足だ。やっと。
その反応が、ずっと、見たかった。
「いや、今は、いいかな」
寝返りを打って、ボクはうつぶせにベッドに沈んだ。
ふふ、と、身をよじるとシーツから、枕から、ベット中からいい匂いがする。きみにも、ボクにも、染み付いてしまったそれが、ふわ、と、漂ってきてもうここから離れたくない。
「キスをして、って意味だよ。ワタル」
にっこりと笑うと、枕越しにワタルの足が少しずつ、ボクの所に近づく音がした。これから何をされるか分からないけど、ドキドキしていることを隠したくて、ボクは枕に顔を埋めた。
枕には、まだしっかりときみの残り香がある。
息を深く、吸い込んだ。
溺れるのは、もう、コリゴリだから。
