燃ゆる彗星①〜⑤ - 5/18

 泣かなくなったのはいつからだろう。

「甘えていいんだ。きみは、いつだってわたしより幼いからね」

 十六歳になったばかりのころ。
 そんなことを言われたこともあった。
 ドロドロに甘い言葉。
 ぽかん、として。そして、ボクはカンカンに怒って、そして気恥ずかしくて、拗ねて。ふざけないでよ、とか言ってしまった気がする。
 今思えば青臭い態度だった。いや、子どもっぽいと言うべきか。
 なのに隣に座っていた彼は、嬉しそうにはにかんでボクの頭を撫でてくるもんだから、目の前にあったジュースを勢いよく飲みきった。
 歳が一回りぐらい離れている親友に、

「それじゃあ、」

 ちょっと、ツン、とした声で。

「ボクは、よぼよぼのお爺さんになっても、キミに甘えちゃうけど」
「もちろん」

 親友の返事は即答だった。
 また顔がカッと熱くなる。冗談だったのに親友の清々しくて正直な言葉に、結局は口を噤むことしかできなかった。
 カラン、と、握りしめたグラスの氷が揺れる。ほとんど残っていないジュースは、氷で薄められてあまりおいしくなかった。
 それが、ボクにとってのミクリという存在だ。
 ボクの拗ねた冗談に返した言葉なんて、所詮本気にはしてないもの。子どもの言うことなんて、可愛いものだ。
 でも今は親友の言葉の真意に、気持ちに、近づいてしまった。分かるようになってしまった。
 子どもたちを守ってあげるのは大人の役目だ。でも大人はそう思っても、子どもという無邪気な彼らにとって、そういう言葉や態度は反抗を促すものであったり、成長を促すものでもあったりする。
 だから、子どもたちは、ボクたちが思うよりずっと、はやく、大きくなって、小さかった足にいつのまにか追い抜かれてしまう。
 眩いほどの輝きに目を焦がされたのはつい最近。
 あの足の速さは、ボクには失われた代物だと気づかされた。
 甘えることが下手になったのはいつから。
 泣くことが下手になったのはいつから。
 いつからボクはこんなに。
 身体は大きくなり、心にあったはずの隙間は、ちょっとだけ埋まってしまって。
 そして大人になってしまったんだろうか。

 

 

 ボクのことを一番に理解してくれているのはミクリだと思う。
 彼のファンからにしたら、なんて生意気な、おこがましくないのか、と怒られそうだけど、ミクリにもしそう言ったとしたら、彼はきっと、そうだろうね、と返してくれる自信だけはあった。
 そんな事実をお互いあえて言わない距離が、ボクたちにはちょうどよく、心地よかった。
 ボクの隣をミクリに譲ったのは、そういうことからだった。

 夕暮れも過ぎたヨスガシティ。
 エアームドにのって見下ろすその街並みは、コンテストの盛り上がりもだいぶ落ち着いてきたのか、昼に比べて人の流れがおだやかだった。
 オレンジ色のイルミネーションとランプがキラキラと輝く。中央にそびえるコンテスト会場は、ホウエンのものとは違って古風な作りだった。そしてかなり大きい。
 そのイルミネーションに彩られた道の真ん中で、ひときわ赤い炎が目立っていた。高度を下げていけば、赤い炎の正体はギャロップで、その後ろには馬車がついていた。
 すぐそばに降りるけど、蹄鉄の軽やかな音がどんどん遠ざかってしまう。

「エアームド、ありがとう。ゆっくり休んでね」

 顎のあたりを撫でると喉を鳴らして喜んでくれる。モンスターボールにしまって、急いで馬車を追いかけた。

「待ってくれ」

 馬車は止まらない。距離がどんどん開く。

「待ってくれ!」

 ボクの声に気づいた御者が目で振り向くと、前を走るギャロップに大きな声をあげた。たぶん、止まれ、と言っている。
 徐々にスピードを下げた馬車は、赤いベンチと噴水の手前でようやく止まった。前に駆け寄れば、座っている御者のお兄さんが帽子をクイッ、と指で押し上げて、息を切らしたボクの姿をまじまじと見下ろしていた。

「乗るの? 乗らないの?」
「”それがあなたのご意思なら”」

 そう言えば無表情だった御者が、柔らかく微笑んで握手を求める。

「旅は道連れ」

 その手を握るとチャリ、という音がした。手を開くと小さな鍵を渡されていた。

「ようこそ、ヨスガの夜へ」

 お礼を言って後ろに回る。ステップに足を乗せたと同時に、ギャロップが足を高くあげると馬車は動き出す。ガタン、という音を立てて、また蹄の音がレンガの道を軽やかに駆けていった。
 しばらく馬車のステップの上でヨスガシティのきらめくオレンジ色の光と、人々の笑い声を眺めながら、冷たい風を浴びる。
 思い出したように貰った鍵を手に取って、そして馬車の後ろのドアを開けた。
 ドアはすんなり開いて、中から暖かい空気が溢れ出てくる。
 中の構造は思ったよりも開放的で、簡素なバーの作りになっている。
 入口から一番奥にある、あたたかいランプに照らされたカウンター席。そこにはすでに一人の男が座っていた。傍らに分厚くてやけにオシャレなコートを椅子に引っさげて、楽しそうに店のマスターと言葉を交わしている。その横顔を周りの女性がひそひそと噂しながら顔を赤らめていた。
 お酒のせいなのか、件の男に酔っているのか。
 ここは、限られた人しか知らない場所だというのに、彼はどこでも人の目についてしまう。
 それはシンオウでも変わらなかった。
 ドアがバタン、と閉まるとその音に驚いた客みんなが揃いも揃ってボクの方を振り返る。
 冷たい空気が閉じきって、火照ってきたのでコートとマフラーを脱いだ。
 そうしてカウンター席に近づくと、必ずボクが来てくれたタイミングを察して、声をかける前に彼は気づいて振り向く。
 後ろに目でもついているのかと、いつも不思議に思う。目が合えば、ボクも彼に微笑む。

「ミクリ」
「やあ、ダイゴ」
「ごめん。待たせたね」
「寄り道が楽しかったようでなにより」

 ちょっとふざけあいながら、離れていた日数をほぐすように話すのがまず最初にするボクたちの癖。がら空きになっているミクリの右隣がボクの定席で、特等席だった。
 マスターがボクの方に近寄ってきて、ミクリと同じものを頼むと気を使ってくれたのか、視界に映らないギリギリの脇に移動する。カチャカチャ手を動かす音を聞きながら、ボクはミクリの方を向いた。

「どう? みんな、元気にしてるかな」

 変わらず、と言って、ミクリは飲みかけのブランデーをゆっくりと傾けた。

「ダイゴから見えていた景色は、とても美しいな、と身をもって感じたよ。外面ばかり眺めていたのが、ようやく、きみの内側から零れる輝きをね」
「……それは、ミクリのものだよ」
「わたしが今感じているのはね。きみの立っていた場所に自分を重ねたときに感じたものだ。わたしだけのものではない」
「ミクリは綺麗だ。いまも、いままでも、そして、これからもね」
「ふふ、当たり前さ」

 ミクリと会う約束が決まったのは、急なことだった。
 恥ずかしいことに、彼からもし連絡が入らなかったら、予定に入れていたポケッチカンパニーとの会食とか、再開発プロジェクトの総会、および交流会のことなんてすっかり忘れていただろう。
 ドロドロな手で慌てて広げた手帳は、ドロドロに潰れていて見えなくなっていた。手帳は持つべきではない。うん。
 再開発プロジェクトに参加することになったのは、メタグロスと一緒に見つけた、かつてボクの家族が愛用していた別荘のせいだ。
 あとでおやじに確認すると、権利書はすっかりボクのものになっていたらしい。
 二十になる頃に伝えておこう、というものが、ちょうどボクが忙しい時期でもあって、話す機会を逃したまますっかり忘れていた、と電話越しに笑い声が聞こえたとき、ほとほと自分の父親というものに呆れた。
 ボクの別荘が放置されていた場所は、リゾートエリアとして今まさに再開発されているところらしく、土地所有者と管理者と相談して、せっかくなのだからと、別荘の改築をお願いしておいた。
 別荘の完成を待ちながら、しばらくは街のホテルと宿を転々とし、ほとんど陽の光を浴びずに地下に潜っている。
 そんなときだった。ミクリから連絡が入ったのは。
 近々、ヨスガシティで開催されるコンテストに来るついでに、会って話しがしたいと。
 ポケナビに残されたメッセージ、断る理由なんてどこにもなかった。
 久々に泥をシャワーで溶かして、真新しいスーツを取り出したとき、あれ、ボク、地下に潜ってからどれだけ日数が経っていたのかな、と首を傾げてしまった。
 やっぱり、今のボクに手帳は効き目が無いのだと思う。

「きみの目についた素敵な子はいたのかい」

 そう聞くとミクリはううん、と唸った。

「今年はどうにもね。……いつものことさ。みんな、光るものはある。諦めずに磨き続けて欲しいと望むばかりだよ」
「……そうだね」
「きみも石ばっかりに時間を使わず、たまには華やかなものでも見るといいさ」

 そう言って懐から滑り出してカウンターに置いたもの。コンテストの特別鑑賞チケットだった。

「遠慮するよ」
「おやおや。きみは変わらないね。これの意味が分からないのか」
「というと」

 ミクリの長くて細い指が、チケットをずらす。チケットは、二枚組だった。
 う、と顔が引き攣る。

「勘弁してよ」
「取っておくといい。使えるものなら、捨てるより活用するべきだよ」

 人から贈られたものを捨てる趣味はないから、困るのに。

「ミクリ……ボクはね、分かってるだろうけど」
「そうだ、テレビ局からきみにお願いが入ってきたよ」

 続けようとした言葉を許さじとして、ミクリはすかさず手帳を取りだした。パラパラと捲られてしまえば、ボクの方に寄せられた二枚組のチケットを睨むしかできなかった。
 どうするんだ、これ。

「防衛戦の映像を明後日の特集でぜひとも使わせてくれって」
「前に使ったものだよね? また使うんだ……かなり追い詰められたところだから、撮れ高なんてないと思うけど」

 そう言うと、ミクリはポカンとした。

「……ほんと、きみっていうのはね……、」
「それにしても、リーグ経由で連絡すればいいのに。テレビ局もよくやるよ」
「わたしの方が確実に連絡が取れると思っているんだろう」
「ふふ。きみには、いつも世話になってばかりだ」
「自覚があるなら、もう少し態度を反省してくれ。リーグとも縁を切った今、本格的にメディアはきみのあとを追っている。わたしがきみを守ろうとする壁も、限界があるんだよ」
「ううん……ボクのことを嗅ぎ回ったとしてなにも面白いものなんてないのにね」

 あんなことがあったのに、まだ懲りないのか。マスコミはいつも忙しない。

「今度は各地方にも放送される大きいテレビ局からの依頼だった」
「じゃあ、シンオウにも?」
「放送されるだろうね」

 少し沈黙。ボクはねばねばと湿った口をゆっくりと動かした。
 ちょうど、マスターの丁寧な説明とともにお酒が出される。確かにミクリと同じものを頼んだはずなのに、いつのまにか飲みやすそうなカクテルに変わっていた。砕かれた氷が光を反射してやけにギラギラしていた。キュラソーのカクテル。
 ごく、と唾液を飲み込む。

「ミクリ」
「わかってる。……断るよ」
「……ありがとう」

 シンオウにも放送されるってことはカントーやジョウトにも放送されるってことだ。見られたくない人に心当たりがあって、あんなみっともない姿を見られてしまうのはちょっと恥ずかしい。それにシンオウに放送されるのは、もっと困る。ミクリは分かりきったように承諾してくれていたけれども、あえてそれについて言及をしなかった。
 ありがたかった。もし聞かれてしまったら、ボクは、何も言えなかっただろうから。

「……ちゃんと食べているか」

 ミクリの声は少し落ち込んでいた。らしくない急な言葉にぎょっとする。

「少し痩せたような気がするよ」
「ええ、ミクリだけだよ。そんなこと言ったの」

 ボクがホウエンを離れてからというもの、ありがたいことにたくさんの人から送られた手紙をカバンの中に今でも大切にしまっている。みんな、忙しいにも関わらずに、ひとつひとつ丁寧なもので。
 楽しんできてほしい、だとか。お土産はなにそれがいい、だとか。そんなこと書かれていた中でボクの身を案じる言葉は、唯一、ミクリだけだった。

「きみは、仕事以外だと生活に無頓着なところがあるからな。三等車の煙でも浴びたかい」
「…………」
「その顔は図星だね。目を逸らさないでくれ」

 ミクリから逸らした目は、グラスに注ぐ。ちょっと溶けてしまった氷がカラン、と揺れた。

「わたしはダイゴという男を一番に理解しているからね」

 ビ、と、グラスに伸ばした手を止めた。いま、なんて。

「きみはわたしの誇りなんだ。それなのに」

 ミクリが笑った。あの笑い方。ボクを子ども扱いしているドロドロに甘い笑顔だ。
 ちょっと苦手なんだ。甘い笑顔なのに、ボクが大人になってからは、特に、お酒を飲むようになってから、ミクリの目つきはどこか鋭くなった気がする。

「こんなにも傷つけられたように誤魔化しているのは、いたたまれない」
「……気づいていたの?」
「おや。今日はそのためにその席に誘ったんだけどね」
「……きみには敵わないな」

 ミクリがとうとう、あの言葉を口に出したってことは、何かボクに伝えたいことがある合図だ。ボクが心地よいと思っているミクリとの距離を縮ませる乱暴な行為でもあった。ミクリはそういうことを率先してする人じゃないし、多分、美徳だとも思っていない。
 でも、“ボクのことを一番に理解している”というワードは、言い逃れをさせない優しさでもあった。
 一番に信頼している友人だからこそ、許される甘い暴挙。

「きみは隠すのが人より優れている。それは強さの象徴で、ひたすらに美しいと思う。誰もが惹かれる、きみ独自の魅力さ」
「大袈裟だ」
「その無自覚が怖いんだよ。そろそろ気づいてくれ」

 ミクリの目に澱む光が、ゆらゆらと揺れる。カウンター席のほのかな灯を吸い込んで、いまはオレンジ色が沈んでいた。
 ミクリの目は、普段は朝の光が反射してキラキラと揺れる海の色だな、穏やかなルネの波に似ているな、と彼の故郷と重ねたことがある。
 なのに、いまはその影もなにも残っていなかった。

「わたしがそのラインを踏むと、きみはとても困るだろう?」

 ボクが何も言えず黙っていると、ミクリは優しく微笑むだけだった。

「だから、きみにはそういう人が必要なのさ」

 まさかミクリの方から話題を戻されるとは思わなくて、正直言ってボクはとても驚いたし、焦った。

「ちょっと待って、そういう話はボク、あまり」
「知っている。昔からきみは、ひときわ疎いからね」
「そういうことって。……待って。ミクリ、」
「恋とか、愛とか、セックスとか、ね」

 嫌な予感が的中した。声がひっくり返る。

「せッ……クす、」
「なにかときみが話題にするのは石やポケモンばかりだっただろう?」

 ミクリは声を潜ませた。ボクにしか聞こえないように、わざと。

「こころあたりに、目を背けるのはきみらしくない」

 喉がカラッと乾いた気がして、すぐに言葉を出せなかった。ミクリの探るような目から逃げられなかったボクは、ひっくり返りそうになったけど、声をなんとか絞り出す。
 余裕を持って、ゆっくりと。

「…………なんのこと」

 でも、ミクリには効果はない。

「昔からの付き合いのよしみに、あえて助言しよう。諦めた方がいい。ダイゴ」

 ギグッ、と肩を震わせると、ミクリは呆れて首を振った。

「わかっているかな」

 ボクの鼻を優しく小突いて続けて言った、

「諦めることを、だよ」
「……その言葉は卑怯だ」

 からかうような声は昔と変わらない、ボクへの励ましだ。