「死んでしまったかと焦りました」
待合室で毛布に包まれながら、寒さにガタガタ震えていたボクに、車掌さんはそう言ってあたたかいコーヒーを渡してくれた。
ヒーターの赤い灯火に身体はじんわりあたたまってきた。
ぽかんぽかんとマグカップから湯気が浮かんできて、それだけですっかり安堵感に包まれる。いい匂いだ。
体は冷え冷えで、足のつま先までカチコチだった。デッキの手すりにもたれかかってぐっすり眠っていたなら誰だって死体だと肝が冷えるだろう。
そんなところでよく寝れましたね、と笑われてしまう。
ボクの寝ている姿は、死んでしまったかのように見えるんだ、と聞いたのは誰からで、いつのことだったろう。その人によれば、もともと寝息がか細いのに加えて、薄いお腹と胸板のせいで肺が浮き沈みするのが分かりにくいらしい。
「あの。ラジオをいただいても」
「構いませんよ、ちょっと待っててくださいね」
そう言って車掌さんは奥の部屋に引っ込んだ。扉が閉まる音が聞こえて、ボクはコーヒーを一口飲む。おいしい。
ハードマウンテンに行くつもりか眠りこけたばっかりに予定が早くも変更されてしまった。
でも採掘に行くにも、道具とか集めた石を保管しておく拠点も必要になる。よく考えもしないで行動が先走っちゃうのはボクのよくないところだ。
行き当たりばったりな旅が久々すぎて、あと、慣れない土地だから初歩から上手くいかない。まずは泊まる場所探しからかな。
「はい、お兄さん。ラジオ」
コトン、と隣に手のひらサイズの小さなラジオが置かれた。使い回したのか、傷がところどころあるアンテナを立てると、古いものにしては音は滑らかだった。
ボクしか客がいない静かな待合室に、朝の天気を告げるアナウンサーの声が響き渡る。
「旧式ですが、よく動きます。よかったらもらっていってください」
「いいんですか」
「買い換えるいい機会です。旅のお供に」
「ありがとうございます」
車掌さんは帽子をくい、と持ち上げると、奥の部屋に戻って行った。マグカップをラジオの横に置き、つまみを回す。知りたい情報は天気と……今、聞いたからこれはよし。
じゃあ、ポケモンの発生お知らせに、あとは……そうだな。
なかなか周波が合わなくて苦戦する。ここかな、ここかな、あ、過ぎてしまった。そうしてこうしてキリキリ回すと突然プツッと滑らかな音が響く。
──ここでッッ!!
ドッ!と。
その声に歓声に。あまりにも大きくて、びっくりしてしまった。慌てて音量を下げる。と、
『チャンピオンのお気持ちを聞いてみたいと思いますうー!』
ぴた、と、回す指を止めた。
この放送は。
待って待って。もしかしてこの放送。周波数を確認すると、シンオウ地方の放送ではなかった。各地に送られる、発信源はカントー地方のもの。
桜が溢れる、今のカントー地方のあたたかい気候をラジオの電光板が知らせてくれた。気温は18℃、湿度62パーセント。
うん、過ごしやすい天気だ。シンオウ地方とは全然違うな。標高の高いセキエイ高原にしては、ぽかぽかあたたかい陽気。
──陽があたる時間帯はおもいのほかあたたかいんだよ
そんなことを言われたのを思い出す。それでもホウエンには負けるけど。
そっか。セキエイ高原にはもう桜が咲いたのか。ホウエンも満開かな。みんな、いつも通りお花見してるかな。
フスベシティにも、もう咲いただろうか。
おもいがけない再会が嬉しくて、ラジオの録音機能をオンにした。もっとよく聞き取れるように耳をそばだてる。目を瞑って。
静かな待合室。隣には、コーヒーの匂いとヒーターの音。傍らに少ない荷物。毛布に包まれて、手元にはメタグロスだけを取り出した。
「ねえ、メタグロス。聞こえるかい。これ、彼の声なんだよ」
クスクスと笑う。窓も扉も締め切ったここに、音量を下げてもイヤホンをつけなくてもよく聞こえた、澄んだ声。
きみは、もうそこに行ってしまったんだね。
そこから語られるよく知る声は、ラジオ越しだとなんだか別人のようだったけど。
ずっとずっと、その声を繰り返し聞いていたのは、ボクとメタグロスだけの秘密だ。
「ありがとうございました」
毛布とマグカップを車掌さんに返そうと待合室を出る前に声をかければ、彼は嬉しそうに笑った。
「この駅の役目も最後なので、おもてなししたくなってしまったのです」
「……」
「そんな顔しないでください。寂しくはあります。でも、悲しくはないのですから」
マグカップと毛布を手に取って、
「あなたのような旅人に、出会えたこと。これまでも、そしてこれからも。それが一旦区切りを迎えただけなんです。なので」
にこ、と笑う。目を細めて、愛おしそうにボクの手にあったラジオに触った。
「このラジオは、ぜひとも。あなたに」
きっと、このラジオは彼の私物じゃないのだろう。駅の待合室に置かれていただろうこのラジオは、改札をくぐる前の旅人たちに向けてしてきた仕事と役目を、今、終えた。
色んな人が、たくさんの人が、このラジオの音を聞いて、旅立ったり、帰路に着いたりしたのだろう。
いったい、どれだけの数の思い出を。どれだけの数の人々の出会いと別れのその接点を、このラジオの中には詰まっているんだろう、って考えるだけで、じわ、と胸が痺れた。
「大切にします」
ぎゅ、と両手でにぎりしめる。無機質なものにぬくもりなんてないのに、確かにそのラジオからはあたたかい何かが溢れていた。
「……素敵な旅を」
車掌さんのその言葉を最後に、ボクは待合室を出る。遠くなったところで振り返ると、彼は色んな鍵がぶら下がっているものからひとつ一番重そうな鍵を扉に差し込んでいるところだった。
前を向く。
びゅう、と冷たい風が吹いてぶるぶる震えた。
「さ、む」
マフラーに鼻を埋めて、少しでも熱を逃がさないようにした。草むらを入ったところでポケットに手を突っ込むと、中にあったボールがひとつカタカタと揺れる。ベルトに戻すのを忘れていた。メタグロスのモンスターボールだ。
取り出すと、
「いね……っわ、」
ポン、という音を立てて、どしん、と地面が揺れた。
「メタグロス」
大きな巨体のもつ赤い二つの目は、ボクを真っ直ぐ見つめていた。ゆっくりこちらに歩み寄ってくると、顔をグッグッ、と押し当ててくる。冷たい。ゴツゴツ。
「ここは、ここちいいかな。きみにとって」
手袋を外して顔を撫でる。鋭いクロスのはがねの部分を擦るのが、メタグロスのお気に入りの触り方だ。シンオウ地方の冷たい空気に冷やされて、ジュ、と薄い皮膚が霜焼けしてしまう音がすると、メタグロスの方から離れた。手袋をしろ、と怒られてしまう。
ごめんごめん。
にしても、メタグロスが自分から出てくるなんて珍しいね。
「きみも、歩きたくなった?」
思い出したのは、さっきのラジオの声。高らかに宣言したその意思は、間違えもなく人々の憧れの光。
「もっと、先に行けるかな。ボクたちも」
目の前に広がる広大な大地。高くそびえるハードマウンテン。海の先には、大きな大陸。あれはキッサキシティかな。あそこは、ここよりも雪が酷くてもっと寒いって話だ。
立ち止まってその海を見つめる。ホウエンとは全然違う景色だ。トクサネシティはずっとずっと暖かくて、朝は潮の香りがぶわっと広がる。
ボクの部屋の窓から見える、白い光で満ちた朝の景色。その光で目を覚ます毎日が、ボクの日常だった。
同じ海なはずなのに、ところ変わればここまで違うものなのか。
海の音も。匂いも。色も。温度も。なにもかも。
薄い霧がかった寒空の先に、高くそびえる影が見えた。テンガン山だ。
ぼー、としていると、隣にいたメタグロスが、のしのしと歩き始めてしまった。寒い気候に興奮してはしゃいでいるのかな、と思ったけどどうやら違うらしい。
「メタグロス、どうしたんだい」
ここらへんはダンバルがたくさんでるんだよ、ってことを話そうとしたんだけど、あまりにもボクが海に見蕩れるから痺れを切らしたのかな。
声をかけても、どんどん前へ行ってしまう。見失わないように急いで追いかけた。
賢いあの子が、ボクのことを気にせず歩くなんてなかなかないから、もしかしたら何か異変が、とちょっと心配になったけど、それは杞憂に終わる。
「メタグロス、待ってく……ッわ!」
なにかに躓いて情けないことに転んでしまう。思いっきり草むらに頭から突っ込んだのに気づいて、メタグロスが歩く足を止めると慌ててこちらに戻ってきた。
「はは、転んだのなんてひさびさだ」
座ったまま、コートやマフラーにこびりついた砂や泥を叩き落とす。靴を脱いでひっくり返すと、入り込んだ大量の砂がザー、と落ちた。落ちた先に、ボロボロの使い古された看板があった。
転んだ原因は、これか。
メタグロスも不思議そうに覗き込んでくる。ボクが拾って、砂に埋もれた文字を手で払って読み上げた。
「だれかに、ひつような、……まち」
赤い書き込み。ぐるぐるに囲んだ印が、よぎる。
「あ」
すべてが繋がった。弾かれたように面をあげる。
「メタグロス、きみはここを目指していたんだね」
目的をすっかり忘れていたボクへの咎めだ。
立ち上がって、前を歩く。メタグロスが後ろからついてくる。茂みをかき分けて、そして開けた景色にたどり着いた。
少し、埃が被った白い建物。備え付けのプールは空っぽで、排水溝には泥と草がこびりついていた。きのみを植える庭も雑草が生え放題で、レンガも少し欠けていて。
人の必要のなくした、家がそこにポツン、と立っていた。
熟れ落ちたきのみをちょうど食べていたキャモメたちがボクとメタグロスの姿に驚くと、一斉に逃げていく。バサバサ、という音が遠く感じた。
思い出した。そうだ。赤いクレヨンで、書き込んだんだっけ。
地図に置いてかれた、忘れ果てた場所。
ここは、ボクの別荘だ。
ちいさいころ。
ずっとずっと昔のことで。記憶もおぼろげなんだけどね。
家族でシンオウ地方に旅行に来たことがある。当時父親はかなり忙しい人で、ちょうど会社がこれから、というさなかだった。
そんなときに、奇跡的に取れた長い休暇。
だけど、シンオウ地方のなれない気候に、ボクは酷い熱を出して寝込んでしまった。父親から学びながらする採掘やらなにやらではしゃぎすぎた疲れもあったのかもしれない。
その日は珍しく、父親が慌ただしく契約先から帰ってきたことを告げる、ドアの乱暴に開いた音だとか。ボクの部屋の前をドタドタと何度も横切る音だとか。不器用にガチャガチャと薬やら氷を入れた洗面器やら用意する音だとか。
朦朧としていたにしてはよく響いて聞こえた。
しばらくすると、ボクの暗い部屋に心配そうな顔をのぞき込ませて、
「ダイゴ、大丈夫か」
ベッドの横に跪いた父は、ボクに手を伸ばしてきた。
父は両手でボクの右手をやわらげに包み込む。人差し指の関節にあるペンだこが、まだ、幼かった頃のボクの小さくてやわっこい手にとって、鉄のように固い感触で。
「そばにいる。安心しろ」
父の言葉が、ボクの知る父じゃないように思えて不思議だった。
いつも静かであるはずの家が、いつも使っていない別荘であるせいなのか、自分の家じゃないみたいに騒がしくて。
ぼう、っとする意識の中。激しく呼吸を繰り返す中。
それだけは今でもはっきり、覚えている。
