ミドルノート✱r18 - 4/6

 ベンチに寝そべったボクに、地面に膝をついたままのワタルが上半身だけ覆いかぶさってくる。耳元にキスをされた。ちゅ、と音が響く。

「ん……ッ」

 舌が差し込まれ、空気を出し入れされた。鼓膜に薄く張っていた気持ち悪さが、水と一緒に抜かれていく。

「耳の調子は」
「ぅ……聞こえる」
「気分は」
「……あんまり」

 クラクラする。耳を中心に、鼻筋に通る血管にかけて。脳みそがドロリと溶かされたような気持ち悪さが全身を巡った。
 平たく言えば、倦怠感に近い。

「ここで、おとなしく、待っててくれ」

 ワタルが立ち上がると、タオルを被せてきた。ひんやりと冷たい。気持ちいい。

「じっとしてられない性格だって、……知ってるよね?」

 タオルをどけてワタルを見ると、顔を顰めていた。嫌な予感でもしたのか。

「五分」

 ワタルはため息をつくと、何も言わずにワゴンへ走り去っていく。
 海を離れ、コテージに帰ろうとした。だけど、あまりにも足に力が入らず、フラフラしてしまったボクのために、ワタルは町に入ると涼しそうな木陰を見つけた。いったんここで、休んだ方がいい、という言葉に甘えることにした。半分は、ワタルのせいでもあるけれど。
 広場の中心にある噴水を、ぐるりと囲むように置かれていたベンチがガラ空きだった。陽射しを遮るだけでも、かなり身体がすっきりしていく。
 それでも、倦怠感がすごくて、濡らしたタオルを目元に当てた。身体を横倒しにして、空を仰ぐと、葉の間をぬって点々と射し込んだ陽の光を浴びて、タオルが透き通りそうだった。だから、目を瞑った。
 あついなぁ。すごく、ここはあつい。
 あつかったな。
 ワタルの目線も、呼吸も、鼓動も、匂いも。
 ボクを見下ろした身体から心まで、ワタルは、とてつもなくあつかった。
 あのとき……。

(食べられるかと思った)

 ワタルは、なんであんなことをしたんだろう。
 欲求不満? それとも……。いや、ボクの考えすぎか。
 噛み付くようなキスを思い出すと、急に胸あたりが熱くなった。ダメだな。なんか、……こう。

「とけそう……」

 クシャ、と目元に当てていたタオルを握りつぶした。背中の汗でシャツが張り付いて、気持ち悪い。
 海の中はもうコリゴリだ。採掘がしたい。そういえば、まだしていない。欲求不満はボクの方じゃないか。
 ここなら何が取れるんだろう。ミネラル分が多い島だから、珍しい石がたくさん見つかるかもしれない。
 鼻をツン、とさせる酸っぱい匂いがしたから、自然硫黄あたりが疑わしい。
 火山の方にも行ってみようか。火山灰の調査もしたい。生息しているポケモンとの関係が分かるかも。マグマの分類とか、岩石の種類の調査に、標本に。やりたいことは数え切れないほど出てくる。
 せっかくの休暇だ。調査目的ではあったけど、思い存分、島を楽しむべきだろう。
 何をしていなかったかな。まだ、何が残ってるのか。
 逆に考える。ワタルとは、この二日間、何をした?

(そういえば……)

 昨日一緒に行った博物館のことをふと、思い出した。
 水面から沈んでいってしまった小舟を拾い上げるように、スローモーションを再生するかのように。
 それはゆったりと頭の中を流れていった。

 

 訪れたのは、街の中心から少し離れた場所にあるあまり大きくはない博物館だった。開けっ放しの両開きの扉と、無人の受付をくぐると、サビの匂いと独特な木と紙の匂いが広がった。
 二人で並んで歩く足音が、石畳でできた館内だとよく響く。天井は高く、大きな船の模型が吊るされていた。あまり観光地としては人気がないのか、ごちんまりとした博物館にはボクとワタルしかいなかった。おかけで、部屋の隅々まで何があるか分かる。扉が開いたままの部屋を次々と回っていくと、ガラスケースがずらりと並べられている角部屋にたどり着いた。
 やけに土くさい部屋だった。

「化石だ」

 ボクが部屋の真ん中あたりで足を止めて言うと、ワタルも止まった。

「ほら、」

 ワタルの腕を引っ張って、一緒に近寄る。部屋の端っこには丸いテーブルと、挟むように二つの椅子が置かれていた。帳簿の代わりに、木の箱が置かれている。えんじ色のクッションが敷き詰められ、その上に人の頭ぐらいの石がしっかり収められていた。箱にはガラスの蓋がされていたけれども、化石の形に合わせて丸くくり抜かれている。
 勝手に持ってかれないようにするためなのか、頑丈なボルトと金具を使ってテーブルにがっちり固定されていた。

「触っていいらしいよ」
「そう書いているのか」
「うん。下に」

 箱のすぐ下には銅板があり、化石の説明と触っていい旨が彫られている。

「レプリカだって」
「にしては、いい出来だな」

 銅板の一番下には、一文が綴られていることにワタルが気づいた。

「なんて書いてあるか分かるか?」
「待って……、Quid libertate est dulcius……かな」
「意味は?」
「『自由ほど甘美なものはない』」

 ボクがたどたどしく言うと、ワタルは優しく笑った。

「そうか。この子は……」

 する、と、化石をなぞる手つきは丁寧だった。

「閉じ込められているように感じるのは、見ている側の勝手な思い込みだな。箱の中に収められてると、どうしても無機質に見えてしまう」
「……きみには、そう見えるんだ?」
「さっきまでは。……でもきみの言葉を聞いて、見方は変わる」
「翻訳しただけどね」

 ワタルは首を振った。

「……おれたちがこの子に会いに来たんじゃなくて、この子がおれたちに会いに来てくれた」

 ワタルは、眉を垂らして愛おしそうに微笑む。背骨の形を確かめるように親指でなぞっていった。

「途方もない、過去から今に至る景色で。自由に」

 ドクン、と鼓動が早まった。ワタルの言葉は、少し、重みがある。じ、とその横顔を見つめていると、ワタルが顔を上げた。

「……ダイゴ」

 いたずらっ子のような表情を、ボクに見せてくる。

「いわゆる、これはレプリカだ」
「知って……、」

 ワタルはいたずらっ子の顔を深めている。

「……もしかしてちょっとふざけた?」

 ワタルがはにかむのを見て、ボクは額に手をついた。やられた。

「……お茶目だな、って思うよ」
「そんなに熱い目で見られるとな」
「……きみだって。ッ……鏡みてきなよ」
「いや、想像つく」
「自覚ありでそれって、……ちょっと、」
「かっこつけたくなったんだ」

 口を噤む。キュッと、頬の裏を噛むと、ワタルは、喉を鳴らして笑ったものだから、頬の中に溜まっていた空気を抜いた。

「きみは、いつだってかっこいいよ。うん、……」

 えぇと、それで。と繋げた言葉はしどろもどろだった。

「……化石の復元に興味は?」
「もちろん。だけど、あとでゆっくり聞かせてくれ」

 ワタルは椅子を引いて、テーブルに肘をついて座る。歯を見せて笑った。

「まだここにいたい」

 グッ、と喉の奥で熱く込み上げた何かを堪えるかのよう、ボクは咳払いをした。
 卑怯だなあ。そういうとこ。何気に振られたし。

「……分かった」

 ボクが頷くのを見て、ワタルは目線を化石に戻す。そうしてしっかりと、化石のレプリカをしきりに触っていく。
 親指と人差し指、中指の腹を使って。骨の形、顎の輪郭、エラの角張ったでこぼこ具合。ゆっくりとなぞっては、真っ黒な目はひたすらに見つめるばかりだ。
 まるで、化石と対話をするように。

(初めて、彼と話したときのようだ)

 あんな目を、していたな。
 ワタルのそんな真剣な横顔をしばらく見つめたあと、ゆっくりと離れていった。
 ワタルの姿が視界に入る程度に、部屋の中を歩き回る。壁は地質に関する記事でほとんど埋め尽くされ、採掘に使われている道具で敷き詰められていたケースは、古ぼけてはいるけど、手入れは怠っていないらしく、埃一つすらなかった。
 ずら、っと並んでいるガラスのケースを見ていくと、一番端っこに置かれていた珍しいものに目を見張った。
 レアルガーがあった。
 燃え立つような赤い色。こんな珍しい鉱石が、まさかここで保管されてるなんて、稀有なこともあるものだな。
 あまりにも見事な形と、大きさと、状態の良さに驚き、ケースにかぶりつくようにしてしまう。
 この鉱石は、光に長く当たってしまうと、黄ばんでしまう。加えて、酸素に触れると、猛毒が生じる危険性もある。湿気にも弱い。扱いにとても困る鉱石だけれども、工夫すれば花火のような道具に応用できるのが厄介なところだ。
 鉄に血がじわりと滲んだような不気味さ。ガラスにぴっちりと閉じられているはずなのに、鉄臭さ、錆臭さ、泥臭さでさえも匂ってくるようだった。
 なんて綺麗なんだ。危なげなのに、こんなにも美しいレアルガーに、目が離せない。
 ここら辺で掘れるのだろうか? だったら今すぐにでも道具を用意して、と、思ったけれども。
 顔を上げた、目線の遠く先。熱い目線と横顔が、相も変わらず化石を愛おしげに見つめている。
 考えていたことが、真っ白になってしまった。そしてたまらなく──

 

 

──え、ワタルさん?

 女性の声が聞こえた。複数だった。若い声だった。なんとなくそう思った。
 しん、と静まっていた館内に、足音が響く。ヒールと、軽やかなサンダルの音。床に敷かれていた大理石は、溶けるように消え失せ、レンガ道に変わっていく。古い紙と土臭さは、徐々に砂と香水の匂いがたち漂ってきた。立っていた感覚の重心が変わり、ボクはいつのまにかベンチに横たわっている。
 そうだ、今は、ワタルを待っている。ずっと。それこそあのときから。

──やっぱり、ワタルさん、だ

 タオルをどけて、声が聞こえた方に目をゆっくりと動かす。ワゴンからこっちに向かうワタルの後ろでは、水着を着たお姉さんたちが大きな目をまん丸くしていた。三人ほど。

──ワタルさんですよね

 おそるおそる、顔を伺うように身を低くしてそう聞いた言葉にワタルが頷くと、ぶるぶると身体が震え、とうとう耐えきれなくなった彼女たちは、興奮しきった、悲鳴のような声をあげた。キャーッ! と叫び、顔を真っ赤にした女性が胸に手を当ててワタルに詰め寄る。

──あの、あの、私たちですね。この島の者なんですが、

 ワタルが、飲み物を両手に、困ったように笑った。あぁ、捕まったのか。そうか。ふうん。

──この後のご予定は? まだ島の観光はしてないのですか? ……それはもったいないですよぉ。よければ、その。ねぇ

 顔を見合せた彼女たちに身体を向けてしまったせいで、ワタルの表情が見えなくなってしまった。手助けようか、このまま見ていようか。
 迷っているうちに、だらん、とベンチに横たえた足は重くなるばかりだ。べちょ、とタオルが首から落ちた。拾うのも億劫だ。日差しは暑く、湿気がムワッとする。
 興奮した女性たちは顔を赤らめてモジモジしたかと思えば、目はぎらついていた。たぶん、ワタルのファンかなにかなのかな。容姿に惚れてしまって、ついでにあわよくばとナンパにかこつけたのかもしれない。この島の女性はとても積極的だから。
 女性は今にも抱きついてしまいそうな勢いでワタルにもう一歩詰め寄る。ワタルが、一歩下がる。また詰め寄る。一歩下がる。
 一人が歩み寄ると、後ろで見ていた女性も一緒になって詰め寄ってきた。そのたびにみるみる顔が青ざめて、落ち着かせるように宥めるワタル。
 面白いな。どんどん遠くに行ってしまう。どこまで行くんだろうってワクワクした。
 なんだかなぁ。目だけを流して、ワタルの横顔をもう一度見る。お姉さんたちは、大胆にも肌や肉を見せびらかすようにして、ワタルのたくましい腕に抱きついた。ワタルはついに険しい顔をした。苦手だろうな、彼。あからさまに、胸が当たっている。
 あぁ、あの顔。苦虫を噛み潰したような顔。珍しく、らしくないから、思わず吹き出しそうになり、慌てて声を押し殺して笑う。ワタルに見つかったら大変だ。怒られるどころじゃないな。
 今までも似たようなシチュエーションは何度か見てきた。そのたびに、ワタルがいつもらしくない表情をするから、気分が良くなってしまう自分がいる。 なんでだろうか。きっと、面白いからだろう。
 そして笑ってしまえば、仕返しのようにワタルはボクを小突くんだ。
 ボクは、ワタルの「らしくない」をいっぱい持っている。 いつの間にか、こんなにも増えてしまっていた。

「……時間切れかな」

 起き上がった。ズレたタオルが膝に落ちて、ふぅ、と息をつく。ここは確かに涼しい。けど、少し寒くなってきた。
 ボクはその場を離れた。どれくらい時間がかかるんだろう。
 きみが、ボクに気づくまで。

 

 

 ワタルのあの、困り顔を思い出したとき、やっときっかけが分かった。ポケナビだ。
 ベンチを離れてから、洞窟に行くまでの道の途中、音もなく寂しい街を歩くのもどうかと思って、ポケナビをつけた。
 スリープモードにしたままだったから、ポケモンリーグの配信の続きが流れ始めた。バトルはすでに、終盤だった。
 負けたのは──挑戦者の方だった。
 その子は、この試合を最後にトレーナーをぱったりやめてしまったらしい。
 ラジオは終わり、インタビュー画面が映し出される。四天王の力強い握手を受け止めるその子の目は、蝋燭の炎が燃え尽きてしまったかのように見え、ボクは胸の辺りにぽっかり穴が空いたような寂しさに包まれた。
 ポケナビに繋いだイヤホンを耳につける。もっとよく、そのトレーナーの声色を聞いてみたい。気分はどうかな。大丈夫かな。もっと、その強さの秘訣と、諦めてしまった理由を知りたい。
 だけど、その人はもう何も喋らなくなってしまった。バトルのリプレイをもう一度流すらしい。インタビュー画面はフェードアウトして、そのまま無背景の間奏曲に切り替わってしまった。
 音楽を聴きながら、目の前の景色をぼんやりと眺めた。
 陽がすっかり暮れた海は、オレンジ色に染まっている。白い砂浜も、そこらじゅうにオレンジ色が散りばめられていた。ゆっくりとグラデーションを描きながらやがて黒くなる景色を、ボクはポケナビを片手に観察していく。
 リリーラはすっかり疲れて眠ってしまった。モンスターボールの中では、揺れを感じるかは分からないけど、わざわざ付き合ってもらう必要も無い。ホテルの部屋に転送して、ボク一人だけはどこにも行けず、何となく海に戻ってきた。
 洞窟にも行った。オリーブ畑にも行った。博物館も、中には入らずにただ外装だけを眺めては踵を返した。
 白い石で連なった町。赤いレンガは、ところどころ欠けてしまっている。かつての戦火に焼かれたのか、焦げているものをそのままにしていた箇所もあった。電灯が少ないこの島は、やがて真っ暗になっていく。
 足がすっかりむくんでしまい、レンガが高く積まれた場所に腰掛けると、少し靴擦れを起こしたのか、小指の関節あたりが赤く膨らんでいた。足を揉んでいると、どこからかヒソヒソと、人の話し声が聞こえてきた。暗くなった海辺に、誰か来たらしい。そのあと、くちゅ、となにか果実が潰れるような音も聞こえて、あ、と声を小さくあげてしまった。しくじったな。
 鼻を啜ると、アルコールのべっとりとした匂いもどこかから漂っている。
 そういえば、この島ってナイトパーティが盛んだったよね。

「……ワタルは苦手そうだなぁ」

 ボクも得意な方ではないけれども。
 あのような場は、ミクリやカゲツの方が楽しみ方をよく知っている。ボクは、まだまだだ。興味を見いだせない、ってのもあるだろうけれども。
 海と砂浜の境界線が曖昧になってしまうほど辺りが暗くなったとき、そろそろ帰ろうかな、とポケナビに手を伸ばした。
 そのとき、隣に誰かが座ったことに気づいた。
 ふ、と、隣を見たそのとき。時間と、頭の中で考えていたことが止まる。

「きみ、は」

 時計の針が、カチッ、と音を立てて壊れるように、ボクの身体は固まってしまった。
 海を眺める目。あの目と重なったけれども、ちぐはぐに噛み合わない違和感に、頭の後ろあたりがゾワゾワした。
 ボクの隣にいつの間にか現れたその人は、なにかつまらなそうにため息をついた。
 変わってしまった。変わってしまったのか。あんなに、ラジオの中では生き生きとしていたのに。
 立ちはだかる大きな壁を、恐れずに技を指示するハキハキとした声が、聞こえる。ボクのイヤホンからだった。ラジオはつけっぱなしだった。バトルのリプレイが流れ続けている。
 わぁぁと沸き起こった歓声が遠ざかる。ボクはイヤホンを外した。海は、相変わらず静かだった。
 隣のその人も、静かだった。
 どうして。何があって、そんな目をしている。
 何が退屈で、海を見ている。何がつまらなくて、あんなため息をついたの?
 ゾクゾク、として、ボクは、口をおもむろに開いた。

「……海は、好きかい」

 バトルは、今も好きでいるかい。