ひら、ひら、と一枚。桜の花びらが落ちてくる。手をそ、と前に出すと吸い込まれるように手のひらにのった。優しく握る。
「ワタルさまーぁ、」
伸びやかな声が、伸びやかに山の麓に響いた。
呼ばれてワタルは振り返った。えっほ、えっほ、と言いながら、足を大きく動かして男がワタルの前に立つ。
「長老さまがお呼びとのことでございます」
「そうか。足労だったろうに」
「いーえいーえ。桜は今が見頃ですから」
「満開だな。こんなに咲いたのは何年ぶりだろうね」
ワタルがフスベに帰ってきたのはさっきのこと。みんなに捕まる前に山を見ておくのは、彼の習慣でもある。白く染っていた山は、自分が足を運んだ頃にはすべて溶け消え、桜が満開になっていた。
いろいろなことがあった。いろいろなことがありすぎて、まるで泡がぶくぶく湧き上がって弾けるのを繰り返すようなものだったから、心を落ち着かせたくて思い出深いここに訪れた。
だが、里の耳はとても早い。じいさんにはバレてしまったらしく、ワタルは頭が上がらないな、と思った。
「まるで、ワタルさまを歓迎しているようですね」
ぜひぜひ、ゆっくりと下山してください、と白い歯を輝かせて、男はまたえっほ、えっほ、と足を大きく動かして山を降りていった。
その姿を見届けて、ワタルは深く息を吸って、吐いた。
目を閉じた。桜の舞う気配とまだ少し涼しげが残る風はとても澄んでいた。下山するにはどうにも惜しくて足を微塵も動かせない。
いろいろなことを思い出した。今でも忘れられないあのときや、このとき。
そして、思い馳せるのはいつだって心の中でずっと輝く光。
それはあたたかくて、柔らかくて、身体を包み込んでくれる優しさなはずなのに、油断すれば牙を向いて身体も心も溶かしてしまう。
光というのはそういうものだ。ワタルという男はその恩恵を誰よりも受け、誰よりもまわりに与えている人だった。
だからこそ、以前より変化が芽生えた今回のことは、誰よりも愛おしく感じた。
セキエイリーグでチャンピオンの座を譲ることが、たまらなく嬉しかったのは誰かにその光を継承できたこと。
継承することはワタルの役目でもあったから。
寂しいことではない。苦しいことでもない。
「行かないとな」
桜が散るのが、今年は幾分早そうだ。はやる心を掻き立てるようにつよい風が桜をなぶる。
でも、悲しいことではない。
「そうだろう」
どんなに辛いことがあっても、どんなに許せないことがあっても。
それでも、人と人のつながり。人とポケモンのつながり。ポケモンとポケモンのつながり。
愛おしいものだと、思う。
突如前触れなく訪れるお別れはきっと身が引き裂かれたように辛いだろう。
ひとつの終わりだから。
大好きだったものが突然ぽっかりといなくなってしまうことだから。
自分の世界の一部だったものを失えば、誰だって苦しい。痛くて痛くて、胸が張り裂けそうになる。
嗚咽を漏らして取り戻せない涙は、土を濡らして濡らして、そしてドロドロに溶けてしまいそうになる。身体ごと。
ずっとずっと、心のなかで愛しいと思っていたあたたかさが、急にふっ、と消えてしまったら、その先に待つ寒さや冷たさに耐えられないのかもしれない。
だけど。
だけど。
冬は溶けて春になる。桜は散ってもまた春に咲く。雨は川を流れ、海から龍のごとく空へのぼり、また雨という恵みに変わる。
涙で濡れた土から芽吹くつぼみは、かけがえのない宝物だ。
季節は巡れば、また季節が訪れる。
巡り巡って、つながりは途切れることはない。
次にまた、そのお別れしたものと出会えたとき。また結ばれたとき。受け継いだとき。
それが同じものだろうと別のものだろうと構わない。
海から頭を上げた光が、海に沈み、また海から身体を持ち上げてそのあたたかさに出会えたとき。
それだけ昔に抱きしめた瞬間が愛おしかったと、その輝きをもう一度噛み締めることができる。
また会えたとき、たまらなく嬉しくなる。
──ぼくは、そんなつながりが大好きなんだ
──だからこそ、別れがひときわ愛おしい
「…………」
静かに頭の中で輝くその声の名前を呼んで、そしてワタルは目を開けた。
太陽が隠れたのだろうか。先程より、幾分辺りが暗い。
ぶぁっと、風が桜を揺らした。木枯らしにしては時期が早すぎる。山間の気温差で生じた風だろうか。いや。
見上げた。目を見開いた。黒い影が、空から大きな影が近づいてくる。
足を動かした。
歩いた。
駆けた。
足を蹴って勢いよく走った。スピードをあげる。下山ではなく、山頂に向かう。
風の力が強まったとき。ワタルは、脚を踏みしめた。
そうして大騒ぎして落ちてきた身体を。
そっと、腕を広げて。
抱きとめた。
「ッ………………」
「…………」
二人は、深く抱きしめあった。お互いの、匂いを確認し合うように、肺いっぱいに、息を吸って。
もしまた会えたら、まず最初に言う言葉は決まっていた。
今こそ。その瞬間。
「ワタル」
かすかに呼ばれた名前が届いていたのか。応えるかのように彼もまた名前を呼んだ。腕の中でくすぐったく笑っている。たった三音の響きがたまらなく愛おしいものが込められ、ずっとずっと、心に溜まっていたものをこぼしていくようにもう一度。
「……ワタル」
きみの匂い。きみの声。きみの、あたたかさ。
愛おしいと、おもう。
「……ひさしぶり」
「あぁ」
「元気にしてたかな」
「とても」
先に言ったように、再び出会えたときの輝きはこれ以上なく美しい。ワタルもそう思った。
こころからそう思ったから力強く彼の身体を抱きしめた。
「きみは、流星のようだ」
かつてお互いがお互いの身体の一部だったように、皮膚も肉も懐かしむように、すべて腕の中に抱きしめられていた。匂いを、体温を、確認するように深い息を吸って、そして目を見つめる。
よく知っている、真っ直ぐな瞳。確かに、彼だった。
「ダイゴ」
互いの鼓膜を揺さぶった愛おしい声に、ダイゴもワタルもたまらなく甘く笑った。
ワタルはゆっくりとその長い足を地面におろした。すると土に敷き詰められた桜の花びらがブワッ、と舞って、ダイゴが滑りそうになる。皮の靴では危なげで、支えるように腰を掴むと照れくさそうにダイゴは笑った。くすぐったい感触にワタルも微笑ましくなる。
顔も背も、別れたときに比べて何もかも変わらないはずなのに、ワタルから見たダイゴはいつのまにか、どことなく落ち着いていて、大人びているように見えた。
前に会ったのは、いつのことだったろうか。
「いつだって、おれのところに落ちてくるんだな」
「つまり、ぼくはいん石?」
「いや、……」
手に手を絡ませた。ぎゅっ、と握ると、皮膚の中で巡る血の脈がどくどくと伝わってきて、ますます愛おしくなった。そしてその愛おしさは言葉に変わる。
「おれの、世界の一部」
少し沈黙。
「ふっ……」
「ふ、ふふ……」
耐えきれなくなったように、真面目くさった顔を解すように二人して笑った。くすくすと。
「かもしれない」
「ふふふ」
それなのにお茶目に誤魔化すものだからダイゴはおだやかに受け取って笑った。おでこをこつん、とぶつけあう。
「防衛戦お疲れさま」
「知っていたのか」
「カントー中大騒ぎだったから。ヤマブキシティのカフェでご飯食べてたら、モニターでそれはもう。すごかった」
「すごい子だろう」
「うん。三年前を思い出した」
抱きしめあった身体を離して、ワタルは空を見上げた。桜が降りしきる。
「チャンピオンを譲ろう、っていうときに、まだ歩きたりないと言われてしまった。二度目だよ」
「あはは。ぼくもそうだったな。不思議な話だ」
「子どもというのはそういうものだから。羽を広げて、足は縛られず、ずっと、歩き続けて」
かつて自分たちがそうだったように。
「満足がいったら、戻ればいいんだ。進むのに疲れたら、休んで。そうして、あの子たちは……」
ワタルの言葉に頷いたダイゴは、その続きを代わりに言う。
「成長する」
ワタルも頷いた。
「ぼくたちの役目というのは、継承することだけど。あとを走る子たちの行く末を見届けられるのがたまらなく愛おしいんだ。追いつかれたとしても、追い抜かれたとしても」
「同感だ」
「悔しいものは悔しいけどね」
降り続けて肩に積もってしまった桜の花びらをワタルは手で払う。
「それでも、その光がずっと伸びやかになることを望んでしまう自分もいる」
ダイゴの髪にもてんてんと桜色がくっついていた。それに彼は気づいてないらしく、思わずくす、と笑ったワタルは彼の髪を弄んで払った。
そういえば、とダイゴが思い出したかのように言う。
「その子ならぼくも会ったんだ」
ダイゴが誰のことを言っているのはすぐに分かった。
ワタルは嬉しくてあたたかく笑う。
「そうだったのか。……元気そうだった? 寄り道も道草も大好きな子だから」
「元気も元気。それに、とっても素敵な子だよ。ラティアスが認めるぐらい。きみの気持ちが分かった気がする」
でね、と、ダイゴは嬉しそうに腰につけていたモンスターボールをひとつ、手に取った。
「でておいで」
優しく投げると、光に包まれてでてきたのはジョウト地方のポケモンだった。
彼が、大好きなはがねタイプ。
「フォレトス? ……あ、まさか、きみ」
「交換してもらったんだ。シルフカンパニーでおやじの用事を済ませてから……あの子に会って……ほらみて! このフォレトスすごーく、育てられているだろう」
嬉しそうにモンスターボールから出してきたのは彼の大好きなはがねタイプのポケモンだった。そういえば、セキエイから離れる前のあの子の手持ちには、育てばかりのクヌギダマがいた。
それも何かの縁なのか。と、ワタルは思ったが、まさか、と目を伏せた。
「きみの話に付き合わされたあの子は大変だったろうな」
「……どういう意味かな」
苦笑いをするワタルに対してダイゴは少し不満げにフォレトスをボールにしまった。どうやら興奮した結果、あまりにも長く話を人にしてしまうことに自覚も反省もないらしい。
「それぐらい、きみの話には魅力があるってことだよ」
「ほんとかなあ」
甘い嘘に聞こえるかもしれない。
でも、それは、主語を変えれば裏返される。
ワタルにとっては嘘偽りじゃなくて本心なのだから。
「あの瞬間、おれは確信したよ」
ふ、と二人は空を見上げる。桜でまあるくくり抜かれた青空は光で眩しい。伸びやかな太陽の光。
太陽だけじゃない。月だけじゃない。星だけじゃない。
この世界には、さまざまなところで光を見つけることができる。
「だれかの成長を見守ることは、自分のことのように嬉しくなってしまうね」
ダイゴはその言葉に頷いた。わかりきっている顔はたまらなく嬉しそうに。気持ちがぴったりと重なる瞬間は、互いを理解できたということ。
出会ったときには、なかったもの。
「……さて、きみはこれからどうするつもりだったんだい」
返事はなかった。聞かなくても、言わなくても、ダイゴは痛いほどその気持ちを共有できてることをワタルはすでに知っていたから。それほどの時間が、二人の間には流れていた。
「話を聞かせてほしいな」
「うん、ぼくも。……同じことを言おうと思っていた」
「たくさん、色んなことがあったんだ」
噛み締めるようにダイゴは二回うんうん、と頷いた。
「きみの話が聞きたい。ぼくの話も、したい」
ダイゴはワタルの手を握った。あたたかく、硬い皮膚は自分のものとは何もかも違う。
「おれたちの話をしよう。これから」
ワタルもその手をぎゅっと握り返した。一緒に下山する前に、気になることがひとつ。
「きみ、船の時間は」
「午後一時」
「……もう過ぎてないか」
ワタルはそう呆れたように笑って空を見上げた。日の傾き具合を見れば、おそらくもう既に午後の三時を過ぎている。ダイゴは手を離して、分かりきっていたようにゴソゴソとカバンを漁り出した。
「……明日のね」
チケットを見せてによりと笑った。いたずらっ子のように。やられた。
「行こうか」
キシャーッと甲高い声が空から聞こえた。見上げると、ダイゴのエアームドがくるくる円を描いて回っている。もう待ちきれないらしい。空から見るフスベの桜はとても綺麗なはずだろうに、何が不満なのだろう。
美しい水色に、桜色に、緑色。
でも、それは地上からでもよく堪能できる。
「桜が綺麗だね。雪かきのかいだ」
くるり身を翻しながら、ダイゴは笑って下山して行った。エアームドもそれを追いかける。雪の見る影もないフスベの山は、光と桜で満ちていた。
ワタルも追いかけて、その手を掴もうとするが、ブワッ、と風が前を横切って一瞬だけダイゴの身体が桜の花びらで見えなくなる。
眩しい光。
まだ冷ややかさが残る風。
桜が咲いたのは、もしかしたらワタルを歓迎しただけじゃないと思うのは、自分勝手な思い込みかもしれない。
それでも。
「ワタル」
声が聞こえた。ワタルのよく知る光。
しなやかな強さを背負った背中は、いとも簡単に遠ざかってしまう。
変わったことがあるとして、言えることはただ一つの事実だけだけど。
いつでも走れば追いかけられる距離には彼がいる。それはとても感慨深いなにかがあって。
頭からじわ、っとこぼれたあたたかさは、やがてワタルの鼓動をはやめた。
いまの気持ちをまとめるならば。
「ひさかたの」
そのあとの言葉は。フスベの山間に吹く強い風にかき消される。
ホウエンまで届けられる、やがて暖かくなる風だ。
不覚暁に星は輝く
…… ひかりのどけき はるのひに
しづごころなく はなのちるらむ
──こんなに日の光がのどかに射している春の日に、なぜ桜の花は落ち着かなげに散っているのだろうか
