不覚暁に星は輝く✱r18 - 33/34

 眩しい光。朝が来たらしい。
 白に満ちた部屋で瞼をあげる。

「おはよう」

 声が聞こえた。ダイゴの声だ。ベッドの隣からではなく、少し離れたところから聞こえてぼやける視界で探る。
 ベッドから起き上がると、ダイゴの姿がようやく分かった。いつのまにかベッドから抜け出して、窓のそばに立っている。背中を向けて、顔だけをこちらに振り返っていた。白い光に満ちた部屋で、ようやくピントがはっきりしていく。
 彼は、いつも通りのスーツを着て、いつも通りの表情をして、俺を見つめていた。傍らには少ない荷物が置かれている。カバンひとつに、一体どれだけのものを詰めたのだろうか。
 ダイゴの背中越しにこぼれ落ちる朝の光はこの部屋を真っ白に染めあげ、そしてそのせいで逆にダイゴの姿は真っ暗だった。
 眩しい。目がクラクラした。

「……最高の景色だって、思わないかい?」

 ダイゴが背中を向けるのをやめて、こちらに身体ごと振り返る。窓枠から身体をずらすと、窓の先の風景がようやく見えた。
 ツン、と鼻腔をくすぐったのは潮の匂い。そして、静かなトクサネの光景。
 みずみずしい緑に子どもたちとポケモンの呼び合う声がにぎやかなはずなのに、この部屋は窓を境界にして切り離されたように穏やかだった。
 豊かな自然を象徴する果てしなく美しい海が揺らめいていて、そこでようやくダイゴの輪郭が縁取られる。光によって。
 陽の光はあたたかでこの上なく穏やか。
 ホウエンの匂い。

「ボクは、ホウエンを愛してる」

 ダイゴの横顔は窓の外を愛おしく見つめていた。

「ホウエンの、匂いも、風も、光も、自然が叫ぶ声も、ポケモンも、……人も」

 波の音を邪魔しないように、静かに言葉を紡いでいく。高すぎでも低すぎでもない、耳にここちよい彼の声はあまりにも優しかった。

「かけがえのないもの。守りたい、愛しいものだ」

 まるでずっとしまっていた秘密の宝物を俺だけにこっそり教えてくれる、そんな声だった。

「前から色々と考えていたこと。……きみの姿をみて、ますます足がうずうずしてね」 

 そういえば、足を治してくれたのはきみだつたか。と、ダイゴは思い出したように空を見上げた。
 優しい目は、そこでギュッ、と瞳孔が開いて決意に変わる。

「……旅に出ようと、思うんだ」

 脇に置いていたカバンを拾い上げてそう言う。

「この足で直接歩いて、この目で直接見て、この肌で……直接、感じて。ぼくは、たくさんのことを、学びたい。知りたい。理解したい」

 ベッドに近寄ってくる。俺は何も言わずに見つめていた。ダイゴの言葉の邪魔をしたくない。

「そして、必ずホウエンにまた帰ってくる。愛しているから。……大好きだから」

 あまりにも、綺麗だったから。俺はベッドの端に腰かけて、真っ直ぐダイゴのことを見上げた。
 彼は、最後だ、と口にして、次のように言う。

「ひさかたの、光のどけき、春の日に。……しづ心なく、花の散るらむ」

 それは、かつて俺がきみに聞いた和歌の一句だった。

「きみは、ぼくに解釈を求めていたね。……でも、」

 ダイゴが、切なそうにした。

「今ここでその解釈ではなく、ぼくなりの返しとして。この言葉をきみに贈ろう」

 すう、と息を吸って。それでも声は落ち着いていた。

「花にあらしのたとえもあるさ」

 一拍おいて、言葉を続ける。ゆっくりと。噛み締めるように。

「さよならだけが、人生だ」

 くしゃ、と笑う。
 なんて、切ない言葉だろうか。切ない言葉だろうに、ダイゴが言うと不思議とまったく切なくなくて、返ってどこか清々しく感じてしまった自分に驚いた。
 それが答えだ。
 それが、俺たちの答えだから。

「ここで。……お別れだ、ワタル」

 頬に触れてくる。俺とはまるで違う、皮が薄く少し細っこい指だ。その手を握りしめようとするとひんやりした温度に戸惑った。彼の指輪が、手を握ることを拒否する。
 おもわず目が眩んでしまう。キシャ、と指輪に反射した光でチカチカしてきた。水面を覗くように揺らめいていった視界の中で、ダイゴの声だけが頭に響く。

「でも寂しくなんかないよね。だって──」

 光が、追いかけてきた。そして頬に触れる感触がぱったり消えてしまった。
 ぱっちりと瞼を開いた先にもうきみはいなかった。カーテンがはためく窓から海に攫われ、落ちてしまったように。
 テーブルには置き手紙。それ以外何も無かった。
 まるで出会いごと何もなかったかのように。
 もともとここには誰にもいなかったように。
 すべて消え去った部屋に、俺だけが置いていかれた。
 潮の香りを残して。

 

 

 

  春醒

 

 青々く広がった空がセキエイ高原を包み込む。緑が広がる高い山の先は、カントー地方、ジョウト地方すべてのトレーナーが目指す頂き。
 花々が咲きみだれるその施設の前に、あたたかい歓声に迎えられて、五人の男女が立派に立っている。
 その真ん中にいる男に、一人の元気な女性がマイクを持って駆け出していった。二つ結びされた明るい髪が、まるでポケモンのしっぽのように軽やかに跳ねて。

『ここで! チャンピオンのお気持ちを聞いてみたいと思いますうー!』

 マイクを高く掲げ男に向けた。

『ワタルさん。なにかみなさんに一言! 意気込みを!』

 一人の男が自信満々に、そして、どこか穏やかな表情で言う。

『ポケモンは、きみたちトレーナーの心にこたえる。必ず』

 しん、とその言葉でまわりが静かになる。皮膚が、肉が、痺れてしまうような気迫だった。

『つよく正しい心を持つんだ』

 草も風も花も、そしてその声を聞く誰もが聞き逃さないようにあたりは静けさで満ちていた。

『おれの姿勢が、誰かにとっての背中になれるなら』

 その顔は、すべてを諭し、すべてを包み込み、すべてを理解した強者の表情。やわらげな声は余裕を表す。

『本望だよ』

 だが、強い意志は漏れ出ている。その瞳は鋭く容赦がない。

『誰でも挑戦してこい。正々堂々、受けて立つ』

 はっきりと、宣戦布告を。
 その姿はまさに王者。堂々とした態度に欺瞞もなく、疑いもない。ビリビリと空気が震えた。そして、

『おれは、いつだってここにいる。喜んできみたちを迎えよう』

 歓声が上がった。あたたかい風がセキエイ高原に咲き乱れる桜を包み込むような、そんな歓声だった。
 その音に気づいた一人。

「まあ、あの子ったら。つけっぱなしのまま旅に出たのね」

 洗い物の水で濡れた手をエプロンで拭きながら、一室に放置されたものに慌ただしく駆け寄った。
 ラジオの音はそこで途切れる。

 

 今、旅に紡ぐあの人の足は、どこへ向かっているのだろうか。
 花に嵐のたとえのように、人々は、いつだって出会いを謳歌している。彼もまたそうだった。
 別れの枝分かれの末、片割れが旅に赴くならば、もう片割れは別の道をのぼっていく。その高みに満足せずひたすら己を極めゆく。
 そしてゆるりと月日は流れる。桜は散り、蛍は消え、月は落ち、そして、雪が解けて。
 また迎えた光の先に、桜は咲くのだから。

 それが、何回目を迎えた頃。

 

 

──カントー地方 ヤマブキシティ

 発車ベルがけたたましく聞こえてきた。
 ハッ、と頭を持ち上げる。
 すっかり暖かくなったはずの季節。なのにまだ少し寒さが残る列車の中、座席があまりにもふかふかだったというのもあって、背もたれにもたれかかってうとうとしてしまったらしい。気づけばいつのまにか発車直前の時刻だ。
 車窓越しに駅のホームにある時計を見ると、午前の十時にさしかかろうとしていた。
 ふ、っと辺りが暗くなった視界に顔をあげる。
 辺りを見渡せばちょうどここから一番近い列車の乗り口に、慌ただしく男が一人乗り込んできたところだった。
 発車ギリギリに、キョロキョロと辺りを見渡している彼と目が合ってしまう。

「やあ」

 ニコリと笑う。人懐っこい顔だった。

「お向かい、いいかな」

 かまわずどうぞ、と返した。
 ガタン、と大きく揺れて、そして列車は走りだす。ヤマブキシティを離れ、外の風景ははがね色から徐々に緑溢れる山や田んぼの景色へ変わっていった。ときどき咲きかけの桜の蕾が目に入ると、あぁ、そういう季節になってきたのかと長い旅の経ちようにしみじみする。
 これからジョウト地方のコガネシティに向かう鉛の箱は、技術発展の成果もあって数年前よりとても早く到着するらしい。
 男は外を眺めていた。少し曇って結露した雫がぽたりぽたりと車窓を滑るのを見て、寒そうに肩をさする。

「……うん、ここはまだちょっと寒いね。シンオウよりはいささか暖かいけど。故郷はもっと暖かいんだ」

 男が少ない荷物から水筒を取り出し、こぽこぽ注いだ。辺りには温かい湯気が白く漂って、車窓は内側からも曇ってしまう。
 コーヒーの匂いだった。

「お礼に、そして」

 出会いに乾杯、と紙コップを合わせる。洒落た男だ。

「きみは、どんな旅をしてきた?」

 男は自分の隣ですやすや寝ているポケモンに気づくと、たまらなく愛おしそうな目で見つめてきた。

「きみのポケモン、とてもいい感じだね。うん。この旅は、きみにとって素晴らしいものだったんじゃないかな」

 ゴォーッと風を切って勢いよく走る音が車窓越しに響いた。ガタガタ揺れるレールの上で、まるで彼と二人きりになってしまったような感覚に足がぶらつく。

「たくさんの出会いがあったんだね。……目を見れば分かるさ」

 列車はそうしてやがてトンネルに入ってしまった。真っ暗になる視界に彼の声だけがはっきり浮かぶ。

「お別れは寂しいものじゃない」

 徐々に暗闇に慣れていく視界は、ぼんやりと男の輪郭を縁どった。それでもまだ暗い。彼の色素の薄い目の中で光がゆらゆらと揺れていた。
 男は飲みかけのコーヒーを車窓のふちに置くと、手を組んで懐かしいものを語るかのように目を細める。

「きみはどうだったかな」

 華奢な手にしては似つかわしくないように思えるゴツイ指輪をいじる仕草は、どことなく上品で倒錯的にも見えた。
 子どものような大人で、安らかに見えて危なげ。そんな雰囲気。

「お別れは、すごく。切なくて」

 ゴトンゴトン、と揺れた列車はトンネルを通り過ぎていくうちにだんだんと明るくなっていく。

「たまらなく──愛おしい」

 トンネルがあけた。あたりが真っ白に染る。窓の外では桜が満開になっていた。景色は桜色に満ちていて、カントー地方にお別れを告げ、ジョウト地方に入ったことがそこで分かった。
 明るくなった先で、男は綺麗に笑っていた。吸い込まれそうな瞳に秘めた思いは触れてはいなくてもあたたかいと思った。
 話によると、彼はシンオウからホウエンに帰る途中らしい。それならまっすぐ飛行機を使うべきなのでは、と聞いたら、彼は笑ってはぐらかした。
 どうやらこの道中になにか意味を持っているらしい。

「きみの話も聞かせて欲しいな」

 そう言われて、ゆったりと、長い旅のことを喜んで話すのを彼は耳を傾け優しく聞いてくれた。相槌の打ち方も、返事の仕方も、頷くタイミングも、なにもかも甘く優しくて、あぁ、この人は世話好きな人なんだな、ってそれだけで分かった。
 長い長い旅ももう終わりに近い。始まりから今までの道を夢中になって語ることは、時間も空間も意識することから連れ去ってしまう。
 そのうちに、やがて曇った車窓の景色は晴れていき、外を満たした緑溢れる山や盆地はいつのまにか消え去って、はがね色のビルや建物が溢れてきた。
 それでも桜はまだ見える。
 アナウンスが聞こえる。到着まであと五分。
 あっというまの刹那の出会い。そして、別れがもう近い。

「人もポケモンも、つながりや絆には輝きがある。……きみにもね」

 きみにも。
 にも、っていうことは、他にたくさんその輝きを見てきたのだろうか。
 彼の道の途中。その輝きの数はきっと計り知れなくて。
 その中でもひときわ大事そうにしている出会いと別れ、ずっと彼の心に閉まっていたのを、今、ちょっとだけ取りだしている。
 これ以上なく大切に。丁寧に。扱いに困る原石を美しい石だと信じて疑わず、磨き続けるように。
 誰を思い出しているんだろうか。
 何を思い出したんだろうか。
 窓の外の風景を遠く見つめている横顔は何かを思い馳せているように見えて思わず口から滑りでる。
 駅のホームに入る直前。向こうの山奥。桜の吹雪がヒラ、っとよぎった中で。
 会いたい人がいるんですか、と。

「え……」

 そうすると初めて彼は動揺した。くしゃ、とした。

「それは」

 ガタンッと列車がレールに躓いたのか上下に揺れる。手に持っていたコーヒーがこぼれそうになったのを、慌てて持ち直した。ピチャン、と跳ねて少しだけ座席を濡らしてしまってわたわたとカバンからハンカチを取り出す。
 目線とピントがぶれた中。

「…………」

 一瞬だけ目を伏せて、男はなんとも言えない顔をした。愛おしそうな、困ったような。寒さではなく別のことに頬を赤らめているような。
 一瞬だけ。ほのかに。

「ふふ」

 視線を彼に戻すと、男はもうそんな表情してはいなかった。ゆったりと笑っている。
 さっきのは気のせいだったのかもしれない。

「そろそろ到着だ」

 列車は大袈裟にもう一度揺れると、隣にいたポケモンがびくりと身を起こした。相棒は、さっきまでいなかったはずの目の前の男にそこで初めて気づいて、ぱちぱちと瞬きをしたが、彼に危険がないことをすぐに悟ると、自分の膝の上に頭を乗せて安心したようにまた眠ってしまった。優しく撫でればすぐに寝息がぐっすり。
 その様子を見ていた彼がコーヒーを飲みきって、紙コップを丁寧にたたんでしまう。
 列車が止まった。

「それじゃあ、お先に失礼するよ」

 男はそう言って座席から立ち上がった。横に置いていたジャケットとカバンを手に取ると、そのまま列車の扉に向かっていく。
 せめて別れる前に旅の目的を聞くと、

「別れの先に、出会うため」

 最後に振り向いて幸せそうにそう答えた。  

「素敵な旅を」