ミドルノート✱r18 - 3/6

 そもそものきっかけは、何だったのだろう。

 つけていたネックレスが、金具が壊れて砂浜に落ちてしまう。拾い上げると、白いオパールが陽の反射でキラキラと光った。これは、昨日ボクがこの島で拾ったものを加工したものだ。用意した金具は、どうやら安物だったらしい。

「直さないと」

 砂を裸足で踏みしめる。ジャリ、という音が鳴った。
 サンダルを脱いだ足の裏に、チクチクと細かくて白い砂がくい込んで、痛いというよりは不思議と気持ちよかった。
 ここの砂浜は、時間帯によって色が変わる。日が昇る前は暗い蒼。日が昇るにつれ、段々と白く薄まっていく色彩は、日が落ちるにつれ、今度は橙色に染まる。
 すっかり日が高く昇った海辺の砂は、色は真っ白でも、鉄のように熱くて、ヒリヒリした。爪の間に白い砂が入り込んで、くすぐったい。
 足を持ち上げて、踵の皮膚を確認すると、ちょっとつけていただけにもかかわらず、皮膚が真っ赤になってしまった。遅れてピリ、とした痛みも追っかけてきたから、砂を払ってサンダルを履きなおした。
 砂浜をゆっくりと海側に歩いていく。足だけを波につけると、とても冷たくて、気持ちがよかった。
 波は穏やかで、ボクのくるぶしを沈ませたり、浮かせたりする。遠くに行ってしまった彼の姿を追いかけようにも、日があまりにも眩しくて手をかざした。
 手の皮膚が太陽に透ける。皮膚の薄いところが真っ赤に照らされて、手の輪郭が白く縁取られる。サングラスを持ってきたことをそこで思い出して、慌ててかけるけれども、やっぱり彼の姿は見えなくなってしまっていた。
 ボクはそこで、ようやく頭の後ろあたりと、こめかみ辺りが鈍く痛いことを思い出し、波から足を持ち上げて、フラフラと砂浜に戻って行った。
 暑さには強い方だけど、ホウエンの暑さとは若干違う。熱中症というよりかは、陽射しがあまりにも強いせいで、軽い日射病になったのだろう。
 砂浜を避けて、でこぼことした岩肌に身を逃げさせ、ちょっとした洞窟みたいに空洞になっているところへ転がりこむ。
 壊れてしまった金具は、もつれてしまったことが原因らしい。岩と岩の間に、細いトゲが特徴的な大きな貝殻があった。ポキ、とトゲを一本手折り、簡易的な工具を作って、接着する。
 拾った貝殻は、内側の真珠層が淡い虹色に光っていて、とても綺麗だった。あとで手持ちのみんなに見せれば、特にエアームドあたりが喜ぶだろうと思い、ポケットにしまった。
 代わりに取り出した一個のモンスターボールを、ポン、と投げた。
 淡く光が弾けて、鳴き声をあげながら出てきたのは、まだ幼いポケモン。

「ホウエンの海とはどこか違うけど、きみの故郷の海には似ている、って感じるかい」

 しゃがんで、彼女と目線を合わせる。リリーラは首を傾げるばかりで、ボクの問いのことをよく分かってはいないみたいだ。

「歩き方を教えよう。おいで、リリーラ」

 そう言って立ち上がり、差し伸べたボクの手を、リリーラは戸惑いがちに触手をゆっくりと持ち上げて、絡めるように優しく握りしめた。

「海の歩き方と陸の歩き方は少し違う。きみたちの適応力は、ほんとうに面白いよ」

 ゴツゴツした岩肌は、予想通りリリーラにとっては少し苦戦するものらしい。吸盤をぺた、と張り付ける姿は、歩くというよりかはほとんど引きずるようなものだった。
 もたついている彼女を焦らせないよう、ボクはときおり足を止める。

「見てごらん」

 洞窟というよりかは、岩でできたトンネルみたいな道を、だいたい半分ぐらいまで歩いたところで、リリーラを抱っこする。
 岩肌が風化し、大きく亀裂が入って穴ができているところを指差す。三角状に大きく割れているせいで、まるで海と砂浜を切り抜いた自然の窓みたいになっていた。

「少し、休もうか」

 岩肌から低いところに移動して、割れ目のすぐ横に座った。ここは岩がべろりと禿げていて、白い砂浜がむき出しになっている。
 リリーラを砂浜に下ろすと、岩肌とは違うサラサラとした感触に驚いて、ピャッとボクの足にしがみついた。

「大丈夫、大丈夫」

 ボクが宥めながら、あぐらをかいて座ると、リリーラが急いでボクの膝によじ登る。落ち着かせるように触手をくすぐってあげると、リリーラはとりあえず大人しくなった。

「触ってごらん。匂いも感じて」

 ボクが砂に手を伸ばし、掴み、持ち上げ、手のひらの力を抜くと、サラサラと白い砂は、岩の切れ目から入り込んだ陽の光を浴びてキラキラと輝きながら落ちていった。
 まるで宝石みたいに輝くそれを、リリーラは大きな目をクリクリさせ、パチパチさせ、見つめていた。
 全て落ちきった砂はこんもりと山を作った。リリーラはもう怖くないらしい。ボクの膝からおずおずと降りて、白い山をつつく。
 つついて、撫でて、掴んで、そしてボクの真似をした。
 その様子が、なんだか微笑ましくて、ボクはくすぐったく笑うと、ポケットからポケナビを取りだした。

「聞こえてるかい」

 番号を押して、エントリーコールの返答を待つ。しばらくすると、聞きなれた友人の声が聞こえてきた。

『ノイズが若干。でも問題ないよ』
「そう。ならよかった」

 ミクリの声は、少しガサツいていたけれども、それでも聞き取るには問題ないから、場所を移動せずに話を続ける。

『無事に着いたようで何より。どうかな。ホウエンとはかなり違うだろう』
「そうだね、ホウエンの海と繋がっているはずなのに、色々とね……」
『調子は?』
「最初は歩くのに戸惑っていたけど、今はすっかり砂浜に夢中だ」
『えぇ?』
「岩肌は歩きにくそうだったけどね。直に慣れるさ」

 ミクリは呆れたようにやれやれ、と言ったから、首を傾げる。

『……違うよ。彼の方だ。連れてきたんだろう?』
「あ、うん、連れてきた」

 連れてきた、けど。

「彼は、海に夢中みたいだ」

 ボクは岩の裂け目の向こう側を見た。海は、相も変わらず波を弛ませて、穏やかそのものだった。

「それじゃあ要件だけど、」

 ポケナビを手に持って、話を戻す。ミクリと他愛ない話を挟みながら情報を交換するだけの会話はすぐに終わった。
 エントリーコールを切る前に、ミクリはため息をついた。
 ボクが不思議に思って黙っていると、ミクリは静かにナイフを取り出すように、話を切り出す。

『きみ、さっそく洞窟にいるんだろう』

 ギグ、とした。

「なんで分かるかなぁ」
『普通はね、ノイズが入るわけないのさ』
「あぁ……納得」

 ミクリのお優しい小言は続く。
 なるべく陽射しの前では、サングラスをかけること。
 陽射しを浴びすぎないこと。 だから日射病になるんだ、と。クリームを頻繁に塗ってほしい。皮膚が爛れても、知らないよ。
 そして。

「……それは、たぶん、無理だろうね」

 そういうと、『知ってる』と返された。ミクリは、ときおり不思議にも言葉にもしなくてもボクの真意を見抜くことが出来る。なんだろうか、お見通し、ってものだろうか。
 そんな優しくて甘い小言を、いつも決まって締めくくる、お決まりの一言がある。

『それでも、必ず心にとどめておくんだよ』

 きみは、すぐにフラフラとどこかへ行ってしまうからと、つけ足して。

「放浪癖だって言いたいの?」

 クスクス笑って言い返すと、

『おや、辞書でも貸そうか? 字引するといい。きみの名前を見たことがある』
「遠慮するよ。代わりに、お土産、楽しみにしてて」
『お土産よりも、肌の調子を期待させてくれ』

 そう言って切れたエントリーコール。彼は、いつまでボクのことを世話するんだろう。昔からの付き合いだから慣れたものだけど。
 ありがたい。ボクのことをボク以上に理解してくれる人がそばにいるっていうのは。
 膝に重みがあることに気づいた。見下ろすと、リリーラが首をもたれてボクの膝の上で寝ている。砂遊びに飽きてしまったのか、それともボクがポケナビにかまけているせいで、痺れを切らしたのか。

「ボクたちも、海に入ろうか」

 もともとそのためにこの場所に訪れた。リリーラを、少しでも安心させるために。
 そうして、歩き方を思い出してもらうために。
 エントリーコール画面を終了して、ラジオに切り替えた。相も変わらずどの局番もノイズばかりだったけど、ラジオ局が近いのか、とある局番だけはクリアに聞こえてきた。

『……繰り出した技は、会場を大きく揺らす! 二人のトレーナーの熱はポケモンたちにも伝わっているようだ! さぁ、次に攻撃をしかけたのは──』

 ポケモンリーグの放送だ。今から、五年ほど前の。
 あぁ。そうか。やっと胸にぽっかり空いた気持ちを思い出した。ボクは、この島に来てからまだ一度もバトルをしていない。まるで、昨日のことが数年前にいたかのようで。それぐらい、この島に来てからの時間の流れというものは、ゆったりしていた。

──たまには、休むといい。きみには、必要な考え方だと思うよ。そのためなら、ボクの肩ぐらい、胸ぐらい。いつだって──

 目を、瞑った。ラジオの声に、情景がはっきりと浮かぶ。広い会場。二人のトレーナー。一人は年老いた四天王の男に、対するは若くて青い眼差しを持つ子ども。繰り出す技は、ぶつかり合い、火花を散らし、地面を揺らす。
 ワクワクとした熱が、心の奥からマグマのように沸き立つ。沸騰した蒸気は、ボクの喉を焦がすようだった。
 この興奮を、ボクはよく知っている。
 楽しみにも、悲しみにも、苦しみにも勝るこの熱の正体を──

「わッ。冷た」

 ビャッ、と肩が跳ねた。頬に氷のように冷たい何かを当てられた感触。
 なに、なに、と、そのまま顔を上向かせられる。

「ダイゴ」

 パチ、と目が合った。黒い眼差し。穏やかな波のように柔らかく揺れる瞳孔を細め、潮風を焦がし燻した匂いをまとっていた。
 ぽつ、と。濡れた真っ赤な前髪から水滴が滑り、ボクの瞼に落ちて、思わず目を瞑った。しょっぱかった。やっぱり海に入っていたらしい。
 水着も、腕にかけている上着のシャツもびしょびしょだ。前髪はくしゃくしゃで、半裸状態の肌は、ところどころうっすらと赤らんでいた。筋肉は上腕二頭筋あたりが膨らんでる。そうとう激しく泳いできたんだろう。

「ここにいたのか。探したよ」
「……ワタル」

 ワタルの手には、氷が溶けかかったペットボトルがあった。中をキンキンに凍らせておいた水だ。

「陽射しが強いから、涼んでた」
「リリーラは」
「出したんだけど、寝てしまったよ」

 ちょうどボクの影になってて見えなかったらしい。ワタルはボクの隣に座ると、ペットボトルのキャップを回して、水を一気に流し込んだ。
 喉仏がごくり、ごくりと、上下に動く。汗がたら、と伝って、なんだか色気があった。ボクがじ、っと見ているのが気になったのか、目をこちらに向けたワタルは、飲んでいたペットボトルをボクに渡してくる。

「陽射しを浴びすぎたな」

 ボクは首を振った。やましい気持ちが、バレてないといいけど。

「このリリーラはね、二億三千年前の地層から見つかった子なんだ」

 少しでも怪しまれないよう、話をリリーラに繋げる。彼女は、目がほとんど開かないようで、あと少しでぐっすり寝てしまいそうだった。

「地層の移動から考えると、この地方の海の方が、かつてリリーラが暮らしていた海の状態に近い」
「それで。……様子はどうだった」
「……変わっていくものの方が、多い。海だって。陸だって。かつてそこにあった姿とは違う。それだから、リリーラは不安そうだった」

 きゅ、とリリーラの触手を掴む。むにゃ、と柔らかい身体が身じろぎ、薄ら瞼を開かせようとするけれども、やっぱり眠いのか、また目を閉じてしまった。

「潮の匂いも、風の勢いも、波の調子も、変わってしまう。同じ海なんてひとつも存在しないように、違うところは数え切れないほどある。それは、場所の移動だけじゃなく、時間の移動もそうだ。でも、変化に慣れるには、実際にその場所に訪れた方が一番いい」

 目を瞑って、深く息をした。潮の香りが心地いい。カラッとした砂浜と、ミネラル分が豊富な、独特の香り。

「……過去と今は、違うとしたら、」

 初めて出会った日と、次に出会った日は、きっと、なにもかも変わってしまっている。

「きみの気持ちは、」

 どうして、このとき、ワタルの気持ちを聞きたくなったのか、今でもよく分かってない。ただ、リリーラを撫でるボクの手のひらを、気づけば彼はその上に自分の手のひらを重ねていた。触れる熱は、茹だるように熱くて。
 さっきまで海に入っていた人には到底思えないほど、熱くて。

「……きみの、気持ちは」

 ワタルを見上げた。思いのほか顔は近かった。鼻と鼻がぶつかりそうなぐらいだった。だけど、じ、と目を逸らさなかった。
 この目が好ましい。この手も、好ましい。だから、きみに聞きたくなったんだ。

「言葉にすることだけが、唯一の伝え方じゃないから。きみの身体も、心も、……考え方も、声色さえも」

 この、熱の正体を。

「きみの、変化も、見てみたい」

 ワタルの目を真っ直ぐ見つめる。訴えかけるように見つめて、少しでもワタルの気持ちを探ろうと目をそらさないけれども、ワタルの目の色が変わるどころか、瞳孔はピクリともしなかった。
 黙り合うボクらに、先に口を開いたのは、ワタルの方だ。

「変わらないものの方が多い」

 そう言って、ボクの腕の中で眠っているリリーラを抱きかかえた。

 

 

 ワタルはリリーラを抱えたまま、岩の割れ目をくぐると、そのまま海に向かってしまったので、ボクは慌ててポケナビをハーフパンツのポケットに突っ込むと、その背中を追いかけた。
 ザブン、と音を立てて、ワタルは海に入った。大きな背中は、躊躇わずに足を進めるものだから、リリーラが飛び起きる。
 いつの間にか自分が今いる場所がボクの腕の中じゃないことに気づいて、オロオロし始めた。

「リリーラ、安心して。大丈夫」

 投げるような形でサンダルをその場に脱ぎ捨て、急いで海に入ったときには既に、ワタルは、とっくに腰まで海に浸かっていた。
 穏やかな波が弛み、リリーラの顔に海がバシャッとかかる。

「平気そうだ」

 ワタルが振り向き、笑う。確かに、リリーラはさっきまでオロオロしていたのに、海に入りたそうにうずうずしていた。

「離してもいいか? 飛び降りてしまいそうだ。きみの指示に合わせる方がいいだろう」

 ボクは歩きながら頷く。

「リリーラ! ワタルの腕が深くまで行ったら、自分のタイミングで離れてみて。怖かったら、そのまま彼にしがみつくんだ」

 ワタルの方が腕が長いから、ボクが海に沈ませるよりもっと深いところまで潜ることが出来るだろう。
 ワタルがしゃがむと、リリーラの身体は少しずつ海へ潜っていった。小さな足から、胴体。大きな花のような頭。そして、目元。
 ワタルが肩まで海に浸かり、腕を下へ潜らせていく。ボクも潜水して、ゆっくりと泳いでワタルたちの方へ近づいていった。
 透明度の高いエメラルドグリーンの海の中。ワタルの腕にしがみついていたリリーラがゆっくりと、触手をほどいて、自分から砂浜へ降りていく瞬間を、見守る。
 落ちていく身体は、ぶくぶくと細かい泡を作りながら、白い砂浜へ着地した。
 海に潜ってそっちに向かうボクの姿に気づいたリリーラは、嬉しそうに目を細めて、触手を揺らめかせる。仲間に会ったとき、ここにいるよ、と合図をするリリーラの習性だった。
 そのとき、少し喉が息苦しく感じた。自分の肺活量に限界を感じるけど、出来ればそのまま安心させたい気持ちが勝ち、さらに深く潜る。
 リリーラと目線を合わせる。ニコッと笑った彼女は無邪気だった。触手をボクの腕に絡ませて、本当に嬉しそうにしている。
 水に入ったときのボクの腕は、どうやら陸のときの触り心地が違うらしい。ぺたぺたと、何か確認する姿があまりにも愛おしく、ついつい頬を弛めてしまった。
 頬をゆるめるのは失敗だった。あ、と思ったときには遅かった。
 ゴボ、ッと、開いた口から水が入り込む。噎せると、また水が大量が入り込んだ。
 潜水の仕方を少しでも間違えると、人はパニックになってしまう。リリーラを巻き込まないように、急いで触手をほどいて、足を蹴るけど、上手くいかない。足に力が入らなくなってしまうと、いよいよゾッとした。
 まずい。溺れる。
 そのとき、伸ばされた大きな手に、腕を力強く掴まれる。

「ぷはッ……!」

 グイッと引っ張ってくれたのは、ワタルだ。
 嘔吐くのを繰り返すけど、上手く水を吐き出せない。肺に入り込んだ水が苦しい。深呼吸って、どうするんだ、っけ。
 ワタルの腕にしがみつく。足はかろうじてついてるけど、少しでも力が抜けると、また溺れてしまう。
 ワタルがボクの腰に腕を回す。肌と肌が触れる感覚に、びく、と身体が震えた。

「ッ……ぐ……ッ……」

 ワタルは咳き込むボクの頬に触れ、力強く指で顎を掴むと、

「……ん……ッ」

 キスをする。空気を流し込むように、舌がぬるりと入ってきた。ふー、とワタルが呼吸を吐く。ボクが吸って、ゆっくりと舌を絡めた。

「……ッふ……」

 力が抜けてしまうボクの腰を、ワタルの腕がしっかりと支えてくれる。ボクは手をゆっくりとワタルの肩において、もう片方の手は首に絡ませた。万が一のため、滑り落ちないように。
 呼吸の仕方をゆっくりと、思い出す。ワタルのやさしいキスに合わせて。
 吸って、吐いて。舌を絡めて、呼吸が流れてくるのを繰り返すと、次第に肺が落ち着いてきた。ワタルの指が喉仏に触れる。ゆっくりと、指の腹が骨を押し出すように力を入れるのと同時に、ワタルのキスは終わった。

「ん、ぐ……」

 水を上手く吐き出せて、ようやく喋ることができる。

「大丈夫か」
「ぁ、……りがとう。たすかった……」

 唇を拭う。足の下がくすぐったい。リリーラだ。手を伸ばして、いまだに海の底にいるままのリリーラを抱き上げる。
 海面からひょっこりと顔を出した彼女は、何が起こったか分からなそうに首を傾げていた。

「先に海から上がってしまって、ごめん。ボクはきみより、呼吸の仕方はよっぽど下手なようだね」

 ふふ、と笑いかける。
 まだ復元してから幼いリリーラが、言葉の意味を理解しているようには思えないけど、それでもボクにニコニコと笑いかける姿は無邪気で愛らしかった。
 リリーラは海の中の方がやっぱり心地いいようだ。壺に入り込んだ水をピューっと噴き出して、ボクたちにかかってしまう。
 冷たい海の水は気持ちよくて、ボクとリリーラは一緒に笑いあった。ワタルもきっと、笑っているはず。
 はずだと、思ったけど。

「ワタル、一度──」

 浜へ戻ろうか、と言おうとした言葉を飲み込む。
 辺りがふ、と暗くなる。不思議に思って面をあげると。

「……ワタル?」

 暗くしたのは、ワタルの影だった。
 陽はまだ東寄りに傾いていて、ちょうど彼の後ろにそびえていた。おかげで、ボクから見てワタルは逆光の位置に立ち、表情がうっすら暗い。
 ワタルの影が、ボクたちに覆い被さる。

「……ダイゴ、きみ、何秒息を止められる」

 ワタルの表情はよく分からなかったけど、声は真剣だった。脈絡のない問いに、ボクは唖然としてしまってすぐには言葉を返せなかった。
 ワタルがボクの手首を掴んだ。少し力が入っているせいで、ドクン、ドクン、と手首に流れる脈が伝わってくる。もう片方の手を胸にあてて、何かを確認するような仕草にいよいよ意味がわからない。

「息を吸って」

 胸から離れた親指がボクの鼻に触れる。
 ざら、とした感触に、嫌な予感がした。

「まッ……」

 手を慌ててポケットに突っ込んだときには、歯と歯がぶつかった。コン、と指の関節が鈍い音を立ててモンスターボールに当たる。リリーラのモンスターボールだ。

「……ッて……」

 バシャン、と音を立てて波が揺れる。モンスターボールが起動して、リリーラが吸い込まれていった。腕が少しずつ軽くなっていく。
 かろうじて間に合ったのもつかの間、唇に噛みつかれる。今度は、鼻を摘まれたままで。
 ワタルとボクの間にリリーラがいなくなったこともあって、ボクたちはますます密着した。逃げようとすると、ワタルが腰に手を回してくる。するりと肌を撫でられあげて、背骨に電流が甘く走るようにゾクゾク痺れた。

「んッ……ふ……」

 手首をきつく掴むその手を振り払おうとするけど、ビクともしなかった。次第に、ドクン、ドクンと、脈打つ音が大きくなっていく。
 数秒。十数秒。数十秒。まって、ほんとうに、し、ぬ。
 空いている手でワタルの背中を思いっきり叩いた。苦しい。くるしい、って。
 もう、ダメ、だ。背中にしがみついた爪で、ワタルの皮膚を引っ掻いた。

「ッ……! ッぁ……ッ……は、ぁッ……」

 あともう少しで意識を失うところで、ワタルがようやく離れた。一気になだれ込んできた空気を思いっきり吸って、吐く。
 足腰の力が抜けて、ワタルの胸にくったりと萎れた茎のようにもたれかかった。

「うぁ、たる……」

 息も絶え絶えにすると、胸に当てた耳から、ワタルの心臓の音が聞こえた。ドクンドクン、と聞こえる音は、ボクの脈打つ速度よりずっと落ち着いた鼓動を繰り返している。
 ワタルの肺の大きさって、いったい……。

「そうか。……やっと分かったよ」
「……さ、んけつするかと、」

 ワタルは乱れた前髪をかきあげると、

「潜り方のコツ、覚えておいて損は無いよな」

 息を、深く吸って。
 そう言って満足そうに笑えば、ボクの腕を強く引っ張る。身体がグン、と前に傾いた。

「ッ……なに、を」

 抱きしめられる形で、ワタルが背中から、ボクは胸から。
 ドボン、と、一緒に海の中へ沈んでいった。

 

 

(海の中は、入るたびに思うんだけど、とても静かで、落ち着く)

(まるで、現実の世界と切り離されたような気分になる……)

(あぁ、でも、陽射しが入ってるから目が痛いほど眩しい。自分の呼吸の形までもが、くっきり見えてしまいそうだ)

 目をうっすら開く。次第にピントがはっきりしていった。
 身体をくるりと回して、水面を見上げる。
 透き通った海の色は、エメラルドグリーンだ。細かい泡が立ち上り、まるで煙のようだった。
 真っ赤な珊瑚は水中で燃える焚き火のようだった。
 綺麗だな。そして、やっぱり静かだった。ボコボコという音が聞こえないと、ボクだけが一人取り残されてしまったように感じる。
 さっきよりも深いところに引きずり込まれたらしい。すっかり、頭まで浸かっているのに、見上げた先の水面は、すごい高いところにあるように思えた。
 透き通った海。遠く上から強い陽が差し込んで、穏やかな光が揺らめいていた。泡がポコ、とまた上へ立ち上っていく。
 このまま沈んでいけば、やがて背中は砂底にぶつかった。ざら、とした感触が後頭部をくすぐって、擦れたことで砂ぼこりが立ち上って、また煙のように消えていった。
 ぼー……っとしていたら、次第に息苦しくなる。目をしかめると、頬をするりと撫でられた。
 あたたかい海の中。それは、沸騰しそうなぐらい熱かった。ワタルの手だ。ワタルの、体温。
 赤い髪は、珊瑚と同じように、水の中で燃える焚き火のようだった。
 そうやってきみは、優しく壊れ物でも扱うかのようにボクの頬に触れる。なのに、覆いかぶさった大きな身体は、ボクを丸ごと飲み込んでしまいそうだ。
 ボクのことを見つめる目は、やっぱり何を考えているかよく分からなかった。
 けれども、ボクは、この目が好ましい。

──肩ぐらい、胸ぐらい、いつだって貸してあげる。あげたっていいけど。きみは納得しない──

 凛とした表情。目は真っ直ぐそのものなのに、眉間にはシワを寄せるものだから、険しい印象を抱いた。何をそんなに、ボクのことを見て不可解なことがあるのだろうか。ボクはこんなに、こんなにも、分かりやすくきみに伝えてるのに。もしかして、ワタルって変なところ鈍感なのかな。
 じっと見つめていると、次にされることがすぐに分かった。

──その目を向けられるたびに思うんだけどね──

 ボクに、その武骨な手が触れたとき、

(あ、……キス、だ、)

 やわらかい皮膚が唇に重なる。
 肺にためた酸素を与えるかのように、唇に噛み付かれた。キスなんて、そんな生易しいものじゃなかった。
 ワタルの口が大きく開いて、歯が剥き出しになる。正面から右へ数えて三番目の歯が、まるで牙のように鋭かった。噛みつかれる。
 ぷち、と破けた唇の皮膚から、赤い血が溢れた。
 透き通った淡い緑色が、赤い絵の具を垂らしたように濁ってしまう。血が滲んだ海は、やがて黄色に変わって澱んでいく。
 ボクの血の匂いが、潮の香りと混ざる。鉄臭くて、自転車のチェーンが塩害でボロボロになっていったときのことを何となく思い出した。
 少しサビ臭いけれども、それより負けじとなだれ込んでくる匂いに、夢中になった。
 もう一度ちゃんと、きみの舌を絡めて呼吸を交わした。しょっぱいなぁ。 スパイスを飲み込んだように、鼻がヒリヒリする。
 目を瞑る。ワタルの体温が、舌伝いに流れ込んでくるのがはっきりと響いた。
 でも、呼吸はしやすくなった。