座卓に散らかった豪華な料理はあっという間に平らげられた跡地で、その片付けの手伝いを頼まれた俺は、人もまばらな大きな和室に戻ると、そのたけなわの過ぎように、小さな里の子どもの一人が置いてけぼりになっているのに気づいた。
「こどもは寝る時間だよ」
箸を持ったままこっくりこっくりしている小さな頭にぽん、と手を乗せた。するとかぶりをふって、なんとか意識を保とうとしている。案の定、またこっくりこっくりしてしまったから、箸をそろ、と抜き去って、小さな身体を抱きかかえる。
それに気づいた女中が慌ててお盆を持ったまま駆け寄ってきた。
「ワタルさま。わたくしが」
「大丈夫。疲れていたんだろう」
「……助かります。大部屋に布団を敷いておりますので」
「あぁ」
昔から歩き慣れた大きな屋敷は、それでも普通の人にとっては広すぎて迷路になる。里帰りするたびに村のみんなが挨拶に集まり、大いに盛り上がる宴会は、なかなか帰ってこない俺がみんなの調子を見るに一番いい機会。
美味しいご飯を囲んで、いろんな話を聞くたびにどれほどの季節がこのフスベに流れていったのが感慨深くなる。
前回は、それが出来なかったけれども。
すっかり静まり返った夜のフスベは、月明かりしか灯されない。青暗い和室を、廊下を、板間を通り過ぎ、奥に控える客人用の和室の襖を開ける。すでに何人か、小さな子たちがポケモンたちと一緒に眠っていた。空いていた布団に寝かせ、ポンポン、と二回胸を叩けばすっかり眠ってしまう。
「……おやすみ」
小さな寝息が聞こえて、襖をそっと閉じる。
宴会場に戻ると、座卓に散らかっている食器や残った料理を忙しなく片付ける女中に、いくつかの大人は和室奥、少し離れた丸机を囲んで酒を飲んでいた。
そこに、イブキも加わっている。だけど。
きょろきょろと、辺りを見渡した。彼の姿が忽然と消えてしまって。
それに気づいたイブキが、盃を片手に小指で示したのは廊下側の襖。よく見ると僅かに開いていた。
踵を返すと女中が声を掛けてくる。
「ワタルさま、どちらへ」
「少し熱を冷ましに」
「お掛ものを。着物は冷えますよ」
「構わない、……いや、」
差し出してきた毛布を、少し考えて。
「貰うよ」
手に取って、開いた襖の先へ出る。きちんと閉めて、さっきとは逆の方角にある回廊へと向かった。人が行かない方角の屋敷は、かなり暗かった。それでもフスベの空気は透き通っているから、月明かりだけで充分に道は分かる。夜目が利かない人間にはきついかもしれないが、彼にとっては些細のことだろう。
木の匂いが、回廊をふみしめる度に強くなる。どんなに閉め切っていても雪の冷たさは滑りはいるな、と着物の袖に手を入れた。
屋敷の奥の奥。見えた中庭も真っ白だった。挟んだ回廊をぐるりと歩くと、中庭に通じるガラス戸と誰にも使われていない和室の敷居の間にある廊下に、彼はちんまりと座っていた。
普段着ているスーツじゃなく、さっぱりとした紺色の着物を身にまとっているせいなのか、それとも月明かりに照らされてぼんやりと庭を見ている様子が、どことなく、らしくないせいか、本当に彼なのか分からなくなってしまう。
声をかけようかかけまいか迷っていると、彼の方がこちらの気配に気づいた。
「ワタル」
安心した。名前を呼ばれてきみだと分かって。
よく見ると彼の手元には、どこからくすねて来たのか、徳利が一瓶に、漆塗りの盃が二つ、重なっていた。
着物一枚では寒すぎるその肩に、毛布を被せると大きな目が見上げてくる。
「疲れたかい」
「いや、」
その隣に座る。
「たくさんの人に囲まれて、楽しかったよ」
「それはよかった」
離れた席で食事をしていた彼は遠くから見ても分かるほど人気者だった。人懐っこい顔と性格はどんなところにいても変わらないらしい。見目も良く、女中から小さな子どもまで彼のところに行って質問を矢継ぎ早に受けていた。
ホウエンのこと、彼自身のこと。
「一番困ったのは、きみのことを聞かれたときだった」
「そうか」
「きみの故郷なのに、きみのことをもっと知りたがってる。不思議だね。ここは、きみの始まりの場所なのに」
「いつものことさ」
「……みんな大好きなんだね。きみのこと」
二人で並んで、ガラス戸越しの中庭を眺めると、雪に埋もれた緑や灯篭を見ればまだまだ冬は長続きしそうだが、雲の切れ目から月明かりが出たり入ったりするともしかしたら案外はやく春は訪れるかもしれない。
その切れ目の風景だ。ダイゴが見とれていたのも、もしかしたら自分の故郷ではなかなか見れない光景だったからなのかもしれない。
彼は、いま、自分が知らない土地で自分の知らない風景と環境に対峙している。
なにを思っているかは分からないが、一人になりたくてふらと足の向くままここに来てしまった理由はなんとなく想像できる。
「……明日は、いよいよだな」
ふっ、と、辺りが暗くなる。おそらく月が分厚い夜の雲に包まれたのだろう。ダイゴの表情が見えなくなって、声だけが浮かぶ。
「うん」
なんとも言えない声だった。嬉しそうでも、悲しそうでも、悔しそうでもない。
当たり前の事実を、当たり前に受け止めているような、そんな声。
「うん、……明日は」
俺は、あくまで付添いだった。
もうだいぶ前の話にはなるが、ダイゴの見舞いにきたリーグ関係者が、病室で俺の姿がいるとは思わず、彼はあんぐりした。
それから呆れた顔でダイゴのリーグ協会との契約を切る運びをしてくれ、と言われれば喜んで頷いたのは、よく覚えている。
もともと、彼をフスベに連れてくる約束をその直前に話したばかりだったから。
「ボクの、大きな区切りだ」
ダイゴは、明日、正式に本部でチャンピオンを辞めることを決意する。そのためにジョウト地方に来た。そして、フスベに来て、明日セキエイに行く。
「でも、わざわざリーグ本部に来る価値はあったな」
ぴら、と、ダイゴが袖から滑り出してきたものにぎょっとした。
「きみの小さい頃の写真とか」
あいかわらず暗くて顔はよく見えないが嬉しそうにはしゃいでいる声が聞こえて思わず目を瞑った。
どこから手に入れた。イブキか、じいさんか。それとも別の誰かか。
「おいおい。骨董品のようなものだよ。勘弁してくれ」
「かわいいなぁ」
「かわ……」
眉をしかめると、その反応が気に入ったのかダイゴははしゃいだ声を出す。
「メタグロスがまだダンバルだったころを思い出したよ。可能性に溢れている過去の姿さ」
写真を俺に渡してくると、袖にしまっていたもう片方の手を露わにする。その手を、俺とダイゴの間に置いていたお盆に伸ばして、徳利に触った。
「きみが来たなら、酌み交わして飲むべきかな」
「悪い冗談かなにかかな」
俺が真面目にそう聞くと、
「…………」
ダイゴは、意味深にくす、と笑うだけ。
「……その前に」
コトン、コトン、と徳利の隣に指輪をひとつひとつ置いていく。丁寧に。
三つめを抜いたとき、ダイゴはその手を一旦止めた。伏せ目がちで垂れた長い睫毛が揺れる。
「話を、しようか」
そう言ってとうとう四つめの指輪を抜いた。それもまた徳利の脇に置く。
「……どんな話を?」
ダイゴがまっさらな手を伸ばし着物の袖が掛からないよう抑えながら、あくまで上品に盃二杯分、酒を注ぐ。それを一つ軽くあげて、笑った。
「ぼくたちの、お話さ」
ガラ、と、数センチだけダイゴがガラス戸を開けた。冷たい空気と一緒に、月明かりが雲から覗いてダイゴの顔を青暗く染める。
ガラス戸の間から滑り入った六花がダイゴの盃に落ちた。
両手で寄せた唇は、漆色の盃の縁に触れて酒つゆを飲み込む。
その頬に、俺は触れた。頬が熱い。酒が火照っている証拠だ。
「…………」
「…………」
そのまま顔を、こちらに向ける。
じ、と見つめれば、ダイゴはじ、っと俺を見つめかえした。
つぅる、と指は頬を伝って顎を掬いとり、彼の喉が酒を飲み込む前にキスをした。
舌を絡めると、くら、とアルコールの匂いがなだれ込んできて喉が熱くなった。そのまま身を重ねるままに、ふらりふらりと。
きみを、抱きしめて床に倒れる。手から滑り落ちた盃は、からん、と、音を立てて脇に転がった。
「ふふふ」
俺の下でゆらと笑う。
「おすそわけ」
ダイゴがくすぐったように身をよじる。俺の影で暗く落とされた表情は、目だけが光を帯びて揺れていた。
「だめだよ」
ダイゴは俺の頬に手をつけておでこをぶつけてきた。前髪が擦れてくすぐったい。そして、熱かった。俺の体温なのか、ダイゴの体温なのかは分からない。
「いますぐにでも、きみのすべてを味わいたいけど」
誰にも見せたくないかのように袖で互いの顔を隠して。
「さらけだすには、ここは人の目がありすぎるから」
言葉を塞ぐように、もう一度口づけをする。
