白い壁に白い天井。消毒液から溢れ出たアルコールの匂い。
ピ、ピ、と、一定の電子音。看護婦に医者に、運ばれていく患者の様子を横目で見るのはあまり気分がいいものでは無い。
その上、白くべっとりした空間を歩き回ると、俺の黒いマントがそうそう目立つらしく、すれ違う老若男女が振り返った。視線が多い環境に慣れている覚えはあるが病室だとわけがちがうな。
その様子を見ていた隣の男が、少し笑ったので話を続けた。歩きながら。
「それで、今の容態は」
「えぇ、」
困ったもんですよ、本当に。
隣を歩く男は、そう言いながらもまったく困ってはいなさそうだった。どちらかというと呆れた顔。
「詳細を言いますと、おそらく一日かけても足りないでしょうね」
「それは勘弁して欲しいな」
「結論だけ述べましょう。お互いのために」
廊下を曲がる。せわしなく歩き回る看護婦や医者をよけながら、どんどんと奥の方へ歩いていった。
「生きているほうが、ありえない」
のに、と続けて男は扉に手をかけ、横に流す。
ぶわ、っと、部屋から花の匂いが芽吹いた。
白い空間に、白いベッド。中心には包帯とガーゼに包まれながらも血色はいい男がいて、俺たちに気づくとにこ、と笑った。
「当の本人はケロッとしている」
そう言ってやれやれ、と手を上げる。
「ダイゴ。調子は?」
聞かれてダイゴは左手を軽くあげた。浮き出た血管には点滴が刺されていて、管の先は二種類の袋がぶら下げられている。
病院着の間に見える肌は、ほとんどが包帯に巻かれている。おでこにはガーゼ。
こんな状態ではあるが、医者によると怪我の完治というよりは栄養失調の方が入院の原因らしい。
「みんな、大袈裟なんだよ。骨は折れていないんだから」
ダイゴがあっけらかんとしてそう言うと隣の男が長い足を動かしてサッ、とベッドに歩み寄った。
「どの口が」
「いたたたた」
鼻をつままれてダイゴはわざとらしくはしゃぐ。
「おじさま」
そのはしゃぎように気づいたのか、ひょっこりと奥から顔を出した女の子は、テレビでよく見たことのある顔だった。
胸に花束を抱え、水を取り換えた花瓶に挿すと俺の姿にも気づいて会釈をする。
「ルチア、帰るよ」
「は、はい」
そういって、ベッドに散らばった大量の手紙を慌てて整理しようとしている。
よく見るとダイゴのベッドの脇には数えきれないほどのダンボールと見舞いの折り紙に、木の実と果物が溢れんばかりに詰め込まれたバスケット、そしてこの病室に花の匂いが溢れかえってる原因であろう花束が乱雑に散らかっていて、このルチアと呼ばれた女の子はずっとその整理をしていたらしい。
だけどダイゴの、のほほんとした様子を見るところあまり作業は進まなかったようだ。
かき集めようとした小さな手を優しく止めて、ダイゴが言う。
「ルチアちゃん、ありがとう。でもいいよ。あとはボクが……」
「でも、」
女の子は困ったように白いシーツに散らばったカラフルなレターを見る。赤に、緑に、青に、黄色に。殺風景な病室はここだけ、色に溢れていた。
「読みたいんだ。ちゃんと、全部」
ダイゴのその言葉を聞いて、ぱちぱち、と彼女が大きな目を弾かせた。
「いまから、ですか?」
「うん。……今からね」
前もって聞いた話によると、ダイゴが目を覚ましたのはつい今朝のことだったらしい。
不思議な話。それまで三日ほど昏睡状態だったはずの彼が、今朝には何も無かったかのようにベッドから起き上がって『おはようございます』と笑ってきた。
それがあまりにも綺麗さっぱり平気そうな顔をしていたせいで、化け物に化かされていたように医者も看護婦もおったまげたということ。それもそうだ。彼の怪我の状態と健康状態を考えれば、精神面でもかなり負担があっただろうに、当の本人は、確かにケロッとしていた。
事件の顛末もリーグの契約の件も、いつ目が覚めるか分からない病人。目が覚めたという朗報はあちこちに飛ばされ、これからリーグ本部の役員やら関係者が吹っ飛んでくるらしい。その前に、俺が呼ばれたのは落ち着いて話せるのがこのタイミングだけだと、気を使ってくれたのが、
「……ミクリ」
今まさに踵を返そうとしている背の高い男だった。ダイゴに呼ばれて振り返った。
「ダイゴ」
真剣な顔をして、たった一言を残す。
「メッセージは、届いただろう?」
ダイゴは目を少しだけ見開くと、ゆっくりと頷いた。二人は視線だけを交わすとそのあとは何も言わなかった。
「ダイゴさん。お大事にね」
ルチアとさきほど呼ばれた女の子も、あとを追って病室を出た。ダイゴと二人きりになる。
しん、と静まる病室。
「朝から、ありがとう。来てくれて嬉しいよ」
先に口を開いたのはダイゴだった。
彼はそう言って奥の窓を開けた。開けた窓から涼しげな風が入ってきて、マントがはためいてしまう。
「……まずは謝らないといけない」
歩み寄るとダイゴは何も言わずに俺をじ、と見上げた。
「手を出して」
ずっと隠していたものを懐から取り出して、ダイゴの手に置く。小さく、米粒ほどしかないそれにダイゴが首を傾げた。
「これは」
「隕石のかけら」
バッ、とダイゴが勢いよく顔を上げた。俺は目を逸らした。
「……だったものだ」
ハクハクとダイゴの口が開いて開く。まさか、と弧を描いた。
「いん石を、砕いッ……」
「仕方なかった」
ボーマンダを解放するに、利用させてもらった。機械とぶつかってショートを起こしたそれは、予想以上に派手な音を立てて俺の前で粉々に砕け散った。かろうじて残ったものは、もう原型を留めてないほど小さく黒焦げで、元の形も何も無かった。
元々は石だ。俺はその違いが分からない、が。
「きみには人の心というものがないのかい?」
「……そこまで言うか」
ダイゴは顔を真っ赤にさせてその石を大事そうに握りしめた。まさか持っていくつもりなのか。もう隕石のかけらですらない。隕石の屑を。
だが、ダイゴはそれをそっと離すと、横の棚に置いた。
ふふ、と笑って、
「……なんてね」
隣に置いていた水とグラスを手に取る。注いで、俺に渡してくれた。
「ボクだって、同じことをしたと思うよ」
座って、と言われて大人しく置かれていた椅子に座る。
「きみなら、ボクの代わりに殴ってくれると思ってね」
「…………」
「あ、その顔。殴ったんだろ。二発ぐらい?」
「四発」
ダイゴは耐えきれなくなって大袈裟に笑った。俺も軽く笑う。
「なかなか、カードキーを渡してくれなくてね。素直じゃないやつには、あれぐらいがちょうどいい」
「なるほど。きみに跨がれたうえに見下ろされたら、震えるしかないのにね」
「きみぐらいさ。俺を怖がらないのも」
そう言うと彼はふぅん、と目だけで面白がった。
「そうかもね」
少し沈黙。
俺たちの間に、そよ風だけが流れていく。窓の外は、気持ちの良い太陽の光が輝いていてその下の方から、中庭で遊んでいるのか、ポケモンに指示をしてポケモン勝負を楽しむ子どもたちの声が聞こえた。ダイゴもそれに気づいたのか、窓の方を眺めて微笑む。
「美しいな」
だが、なにか苦いものを思い出したのか顔をしかめた。
「……痛感した」
声は、低かった。彼らしくない声だった。
「やはり、共に生きるの、って、本当に難しいことだ」
自分の膝元に散らばった手紙ひとつひとつを拾い上げる。
そのひとつに書かれていた『ダイゴさんへ』の文字はとても綺麗だった。トレーナーだろうか。
もうひとつ拾う。『だいごさんへ』と書かれた文字は幼かった。一生懸命、親に手伝いながらもその送り主は頑張って書いたのだろう。
きっと、その手紙は彼の引退を知った者、彼の入院を知った者、様々な人からダイゴに宛てられたものだった。全部大切に手に取ると、ひとつに束ねてテーブル横に置いた。
「彼らの苦しみを理解できないわけじゃないんだ。立場を考えれば、仕方ないこともある。それが、現実だから」
テーブル横には、たくさんのダンボール。彼のことを心配した声はここにも溢れかえっていた。ポケナビでも、テレビでも、ラジオでも、すれ違う人々ですらも、彼の名前を口から出していた。
「誰かを悲しませることだけは許せない」
それなのに、彼は、自分を許せないかのようにぎゅ、とシーツを握りしめた。
「……それでも、どちらかの幸せを優先すれば、どこか歪みは生まれ、世界は悲しみを抱えて生きていくしかない。それって、とっても……さ」
震える唇に、皺を寄せた眉間。
「だれも悲しませないようにするには、どうすればいいんだろうね」
目は誰よりも優しく、誰よりも愛おしく、悲しい事実を見つめていた。
ダイゴの大事な時間だ。俺は、ただ黙ってその姿を見守る。
「ボクにできることは、って考えた結果、空回りしてしまったみたいで」
だとしても。
「どこか、希望に縋りたくて。信じたかったんだ。人も、ポケモンも、きっと、共に理解しながら生きていけるはずだ。みんな悲しい思いをしないで」
そう言って、俯いていた顔がようやく俺を見上げた。
「……だからこそ、」
きみは。と、言いかけてダイゴは口を閉じた。少し迷って続ける。
「未然に防ぐことの出来なかったのはボクの力不足。……結局、きみを頼ってしまったね」
不安げに、悲しげに、そして、どこか愛おしげに笑った彼の目は、ゆらゆらと光が揺らめいた。
「巻き込みたくはなかった」
ごめん、と、か細く付け足した声が空気に溶ける。その表情をじっとみた。続かない言葉に口を開いたのは俺の方だった。
「……どうして」
そう聞くと、ダイゴは言おうか言わないか少し迷ってとうとう話し始めた。戸惑いがちに。
「きみは、光が強すぎるから。危険すぎるから」
「…………」
「きみの正義は、諸刃の刃だ。普通の人では、到底耐えられない」
「それは」
俺が言い返そうとすると、ダイゴは目で封じた。それは優しい目だった。
「きみにとっては正しいこと。周りにとっては光となり、希望となる。一方で、誰かにとっては牙となり、傷となり、……それを止められる人がいなかったとしたら、……そしたら」
優しい目は、切なげな言葉を止める。
「抉る傷は、きみにもできていく。傷は、消えずにやがて窪みとなる。きみは、一生それに……、いや、」
ダイゴはかぶりをふって、
「なにをいってるんだろう。ボクは」
優しい瞳はひときわ悲しそうにした。その顔を見るのは三度目だ。
一度目は、浅瀬のほら穴できみとセックスしたあとに。
二度目は、祝賀会できみにキスするのを拒まれたとき。
やっと、その表情の理由がわかった気がした。
「きみのすべてを理解しているわけじゃないのに」
「……当たり前だ」
それは、おかしいことでも何でもない。悲しいことでもない。
なぜなら。
「でも、それは、俺も同じさ」
ダイゴがこちらを見る。俺は傍にあった椅子から立ち上がりベッドの脇に腰をかけた。彼のすぐ横で、ギシ、と体重分スプリングが悲鳴をあげる。
ダイゴにより近く。彼に向き直って。
「きみを知りたい。もっと、深く」
その言葉にダイゴが目をぱちぱちさせた。そして両手をあげた。降参らしい。
「ボクたちは、順番を色々とはき違えてたのかもね」
ダイゴがその手を片方差し出してきた。点滴の繋がれていない右手を。指輪も何もつけていない彼の手は、いつもより華奢に見えた。
でも、俺はそのしなやかな手のぬくもりと強さを知っている。
そして、もっとその正体を知りたいと思った。
こころから。
「はじめまして。……ワタル」
ダイゴは綺麗に笑う。
瞳はひたすらにまっすぐだった。カイナシティのときと何ら変わらない。でも、俺たちはようやく見つめあうことが出来た。
長くて、複雑で、遠回りをしてきた道だったが、寒くて、白くて、足跡もぐちゃぐちゃに踏み固まった雪道は、もう溶け始めて。
「……はじめまして、ダイゴ」
差し出してきた手を握る。俺のよく知る、細くてもしなやかに強い手の骨だ。
ダイゴも嬉しそうに俺の手を強く握り返してくる。血が巡る鼓動も、体温も、ぜんぶぜんぶが今、共有できている気がした。
「自己紹介は、もういいだろうね」
そう言えばダイゴは笑う。
噛み締めるように、はにかんだ。
俺の頬に手を伸ばしてくる。カラン、と点滴が騒いだのも気にせずにそのまま顔を俺の唇に引き寄せてきて。
病室に入ってきた風は優しくカーテンを揺らす。
春の芽吹く、匂いがした。
