雨も風も酷いホウエンの景色は、最悪だった。あたたかい気温は凍てつく寒さまで下がり、空は真っ暗。太陽の光は遮られ、手を伸ばした先ですらもかすむ。
カイリューでさえもときおり風に嬲られ、方向が揺れるときは俺が誘導せざるを得なかった。
はぁ、と息を吐く。するとゴーグルが真っ白に曇る。見上げるとあられも降ってきた。降下せざるを得ない。
すぐ横にはえんとつやまが聳えていて、濁った火山灰と透明なあられが俺たちに襲いかかる。ホウエンの自然が、敵意をむき出しになるとこうなるのか。
なんて、おぞましい光景だ。
カイリューから滑り落ちないように注意し、一気に高度を下げた。真っ直ぐに姿勢を落として、まるで弾丸のように空気を切り裂き、ほぼ垂直に飛ぶ姿は、従姉妹いわくゾッとするからやめて欲しいと何度言われたことか。
だが、今は緊急事態。一刻を争うことに生半可な気持ちでは行動できない。
空気を割って、ひらけた景色は灰色と鉄の街だった。あちらこちらに開発中のハリボテが残されたままのそこは、電気が灯されていない真っ暗な街。
今、まさに開発プロジェクトが進んでいるさなかのキンセツシティだ。街全体が、大きなビルになろうとしている。
懐に閉まっていた端末を取り出す。起動したそれは、相変わらずうんともすんとも言わなかったはずなのに、俺に届いた一件のメッセージ。そして、鍵付きのファイル。
ファイルを開けば、あまりにも酷い事件の顛末に吐き気が出る。このファイルすべてを集めるのに、どれだけの時間と、労力と、そして、危険を伴ったか想像するだけで、彼が抱えていたものが思っていた以上に大きなものだったことに今更ながらに気づいた。
こんなことをしてくる相手に思い当たるのはたった一人。
──キンセツ カイハツチュウ サイジョウカイ ゴゴノナナジニ
「……ダイゴ」
きみなんだろう。どうして。
どうして。
きみはいま、どこに。
「ッカイリュー。高度を少しずつ落としてくれ。ビルの屋上でいい」
雨風が横殴りしてくるせいで、カイリューの体勢が崩れる。優しくなだめて、視界が悪い中、かろうじてキンセツシティビルの屋上に誘導した。完全に着地する前に降りて、雨風だけではなく、火山灰とあられに体力をそがれたカイリューをいたわった。
「ゆっくり休んでくれ」
そのままついてこようとしたのを、首で振って示す。モンスターボールにしまって、急いでビル内に通じる階段に向かった。どこもかしこも、まだ開発中のせいで鉄骨がむき出しになっているハリボテは、雨風でキィキィと音を立て、窓ガラスは今にも割れそうなぐらいガタガタ揺れて悲鳴をあげている。
住民はいないはずだ。新聞では、ジムリーダーが完成まで封鎖する、それはリーグ開催期間に合わせて計画は進んでいるとのことだった。
なのに。
鉄と鉛で固められた廊下を進む。最上階奥。一番大きな部屋とされ、電気が備蓄されている部屋がある。
そこのドアから。なぜか。真っ暗なキンセツシティのなか、ぽっかりと異常さを表すかのように。
電気が、漏れていた。
扉を開けると、目の前にいた男は期待したように立ち上がったが俺の姿を確認するやいなや舌打ちをした。
俺は、その男をじろりと睨んだ。悪い予感は当たってしまった。
「予想どおりだな」
後ろ手でドアを閉めると自動ロックがかかる音が聞こえた。なにもかも、用意されていた事態に吐き気がでる。
目の前の男は分かりやすく顔を歪めてもう一度舌打ちをした。
「ツワブキの息子じゃなかったか。くそッ……」
祝賀会で、ダイゴに手を出そうとした男だった。
「実に、あの若僧は勘が良くて甚だ、ずうずうしい」
そう言ってベッドに腰をかけると無造作に足を組む。
「データはお前が持っているのか? ツワブキの息子が来なかったってことは……」
俺は端末を取りだせば、男がパッと明るい表情になった。まるで餌の前に唾液を垂らす獣のような顔。
「データならここにある。だが、」
それを懐に仕舞い直す。男は不機嫌に舌打ちをした。足でイラつかせたようにダミダミ床を踏んでいる。
「もう逃げ道はない」
「逃げ道? ハッ」
「目的を話すんだ」
「ファイルの中を開けたんだろ。あくびが出るほど、こまかーく、証拠がそこにあるはずだ。愚問なのでは?」
「直接聞くのとわけが違う」
黙秘を貫くつもりはないらしい。男は、余裕たっぷりのまま笑うと、ベッドから立ち上がった。
「シーキンセツ……通称すてられぶね」
すてられぶね。シーキンセツという名前が消されてから、人々が親しみと、ちょっとした揶揄の意味を込めて付けられた別名。
「調べがついているならわざわざ言うことでもないが。ダイキンセツホールディングスにいた俺は、あの船とその周りでなにか取り憑かれたようなプロジェクトのせいで人生をめちゃくちゃにされた」
まぁそんなことはもうどうでもいいと言葉を続けて男は半ば投げやりに話し始めた。
「使えるものは使わせてもらう。俺たちの目的はあの船。いや、正確に言えば、あの船の下にある海底資源」
シーキンセツはもともとダイキンセツホールディングスが海底資源の採掘するのに使っていた船だ。だが、企業の倒産とともに棄てられたそこは、すぐさま解体をする予定があったはずが、周辺の環境調査の結果、独自の生態系が形成されていることが判明した。
すぐさま取り壊しを中止して自然保護区になったという異例の流れで、今では観光地にもなっているらしい。
「それを採掘するに、古い船はもう使えない」
フッ、と、すべてが繋がった。
「まさか、」
天気研究所での騒動が脳をよぎる。みんなの切羽詰まった表情に、声に、俺の頭を劈く。ゾッとするなにかが、俺の背筋を撫で上げた感覚に、怒りすらも通り過ぎた。
「最初から、そっちを、沈ませる気で」
男は返事の代わりに笑った。それを見た俺は握りこぶしに力が入る。
「あそこには、ポケモンがすでに住み着いている。そんなことをすれば、独自の生態系が崩れ、たくさんのポケモンが死ぬ羽目に」
「それが、どうした」
俺の言葉を遮った男の目は真っ黒に燃えていた。憎しみで、ぐつぐつと。
「シーキンセツが沈めば環境保護団体も撤収せざるを得ない。あそこを手に入れるために……俺たちがどれだけ……」
何度目かの舌打ちをする。この男の悪癖なのかもしれない。
「合同調査隊の報告書を手に入れ、改竄し、あの大暴れどもを必死こきながら捕まえさせ、いよいよ計画を実行するってときにッ……、それなのに……。あの、ダイゴという若僧は……」
憎しみが煮えたぎる。黒い目は、もっと黒くなった。
「どこでかき集めたんだが。三日前。祝賀会が終わったすぐあとだな。証拠全部、俺の前に持ってきて、事を起こす前に自主するならそこまで痛い目に遭わない、って脅してきやがった。そのあとに語ること、語ること」
ギ、と歯を食いしばった。皺が深い顔は、彼が担った過去の泥を象徴するように見えた。
「すべて、綺麗ごとだ」
俺を見て、また鼻で笑った。何かを思い出したらしい。
「ポケモンと共存? 理解することが大事? その偽善が、どれだけの犠牲を生んだか、綺麗ごとばかりいいやがって。テッセンのやつもッ、デボンの輩もッ。そして、世論もだ。浮かない闇を正しさで塗りつぶしたのは、果たして本当に正義と言えるのか?」
正義。たったその一言を噛み砕くように、恨めしいように男が声を低くする。唸り声のような声だ。
「俺たちは悪か? 違う、それは違うだろう。そう、犠牲はつきものなんだ。それは正義という皮を被った偽善が、それを利用したあいつらが証明したなら、」
狡猾な面は、とうとう吐き出した。
「俺たちが間違ってるとは言えないだろうに。弱肉強食こそが、この世界の摂理」
ふざけたことを。
「どんな形であれ、理由であれ。罪のないポケモンも、人間も、悲しませることは許せない」
そう言うと、またハッと鼻で笑った。
「同じことを二度も聞く羽目になるなんてな。お前も、あいつの息子も」
男はニヤニヤしながら皮肉を言った。
「だからこそ、楽しみにしていたのに」
その言葉に、眉間が震える。
「……どういうことだ」
「あの背筋も、あの顔も。全身、余裕で包まれた男。その魅力の最大限はどこにあると思う?」
男は端末を取りだした。ポケナビでも、ポケギアでもなかった。その画面をまざまざ俺にみせてくる。
「見目だけは、好みだった」
その画面にはダイゴの姿が写っていた。視線はこちらを見ていない。
「ゾクゾクだ。ここに来る足音が聞こえるたびに。本当に……ゾクゾクした。……のに、」
端末を落とす。真っ暗な画面には俺の顔が映った。
「はなはだ、ずうずうしい若僧め」
男の気配が変わって腰に手を忍ばせる。
「……ここでポケモンは出さないほうがいい。もっとも、出せるなら、の話だが」
「……なに?」
男はゆっくりと、シワの深い手を後ろの方に伸ばした。男の影になって気づかなかったが、ベッドの隣には小さなテーブルがある。
「モンスターボールの仕組みはご存知かな」
男は手のひらサイズの小さな機械を、俺の前に見せつけてきた。長方形の黒い端末の先に触覚のように伸びた長い銀色の針がついていて、僅かに震えている。頭がツキン、と痛みが走った。ガラスを引っ掻いたようなかすかな音を感知するに、おそらく、妨害電波だ。
モンスターボールの。
「ボールの解除ができないまま、身体が大きくなれば、……あとは分かるな」
男は機械をゆらゆらと揺らして煽る。その機械を見て思い出したことがひとつ。
りゅうせいの滝。そして、滝壺に落ちてきたあのとき。
ダイゴのぐったりとした姿。スーツにこびりついた血の匂いに、火薬の匂いが漂っていて。
まさか。
まさか、あのとき。
「ポケモンの助けがなければ、人は所詮無力だ。あのダイゴという男も、結局は人間に過ぎない」
それだけじゃない。
「自分が大事に大事にしてきた計画を、やすやすとドブに投げると思ったか?」
自動ロックの扉。誰もいない、キンセツシティ。電波も届かず、モンスターボールも使えないここは、まるで牢獄のよう。
そして、用意されているこの部屋には、ベッドしかない。
誰が、もともとここに来る予定だった。
誰が、この男のもとに来る予定だった。
「だから、お誘いしたんだけどね。わざわざ、二回も、」
ねっとりとした声。
「期待していたんだが」
にやぁ、と、やけにゆっくりと口角が歪むのを見て、頭にかすった光景。
揺れる四肢。男に組み敷かれている俺のよく知る身体。くねらせるように、抵抗する。揺らしていた。腰を、太ももを、顔を、火照らせて。
そんな幻惑が、彼の印象をかすらせた。
拳が、熱い。
「抱いたら、さぞかし具合が良くなったろうに」
激しい音。
男の身体が吹っ飛んだ。近くにあったテーブルにしがみつこうとしたが、それは叶わず、ワイングラスも瓶も全部撒き散らしながら、男は大袈裟に絨毯にころがった。
真っ赤に染まった鼻を抑え、よろよろ俺を見上げる顔からは、ボタボタと、血が手から漏れ出ていた。細い息を繰り返す。
少なくとも鼻骨は折った。
「わきまえろ」
血で少し湿ってしまった手を、近くにあったナプキンでサッと拭った。
「身のほどをね」
男に投げつける。無抵抗な身体は、すっかり縮こまって怯えていた。
