濃厚な一夜だった。
覚えているのはそれだけで、あとはうだる暑さだけが脳にこびりつく。
狂乱に惑わされたのか。パーティごと、まるで幻だったかのようだ。
人混みの熱さと、夏の暑さにたまらなく夢中になったはずなのに、あの人にとっては所詮一種の戯れに過ぎなかった。
あんなに人を期待させておいて、なんて酷い人だったのだろうと。
今は、思う。あの匂いが消えてから。
ミドルノート middle note
きっかけは些細なことに、パーティに誘われたから。
ポストから新聞を取り出すと、一緒に入っていた白い封筒が落ちてきた。拾い上げると、裏に書かれた名前に見覚えがある。派手なこと好きの友人は、どうやら今年も派手なことを企んでいるらしい。いくつの地方をまたいできたのか、封筒には派手なスタンプやシールがベタベタに張られていた。なるべく傷つけないように封筒を破いていく。
中には、予想通り。船のチケットが二枚。そして招待状が入っていた。
内容はあっさりしている。日頃の感謝と新陸を深めるためのパーティが近々開かれるらしい。完全招待制の、限られたものしか遊べない特別なパーティ。
今日の夕暮れ、か。今からゆっくり支度しても、余裕で間に合うだろう。簡単な身支度だけ済まして、すぐに出発した。都合がよく、予定は空っぽだったから。
刺激を求めたかった。ただ、それだけ。
水の都アルトマーレを経由して、それからフェリーで三時間ほど南へ下っていく。
甲板に出ると、潮のいい匂いがしてきた。地中海性気候独特の海の匂いだ。手すりにもたれかかって、ビールを飲む。
遠くの方に見えてきた、青い島。
観光地としても別荘地としても人気なそこは、透き通った緑や青が混じりあって揺らめく海が有名だ。
島にはところどころ緑が生い茂り、空気はカラッとしている。緑とコントラストを描くように、白い建物とレンガ道が島の高い位置を目指して連なっていた。
耳をすませば、波の音を縫ってポケモンの鳴き声が甲高く聞こえてきた。 あれは、ホエルオーか。空の方にはキャモメの群れ。
自然とポケモンが共存できるように、人の手をあまり加えずに生き続けてきた島。訪れる度に、心臓が期待してドキドキする。
フェリーから降りて、さほど重くないリュックサックを背負う。桟橋は使い古されているらしく、歩くたびミシミシと音を立てた。
高い位置から見下ろす浜辺には、ほとんど人がいない。海の向こうでは、太陽が落ちかかっていた。浜辺のクリーム色も、海のエメラルド色も、少しずつオレンジ色が滲んでいく。
日差しは強く、少し立ち止まっただけでも汗が出てきた。太陽があまりにも眩しく、手をかざして心もとない日陰を作る。サングラスを忘れてしまったのは失態だったな。
その指の間に、浜辺にちょうど現れた人影をぽっかり区切った。
一瞬目を奪われて、すぐに手をどけるけれども、もう消えてしまった。幻のように。
でも。
綺麗な人だったな。
陽がすっかり暮れた夜。緑が生い茂る島の中で、パーティ会場だけが、切り離されたみたいだった。煌びやかな電灯。熱く盛り上がる音楽。派手な人混み。
潮の香りと酒の香りがごちゃまぜだ。すっかり、酔いつぶれているメンバーもいる。
自分を招待した友人もその一人。慣れない酒と暑さにやられたらしく、ホテルでぐったりしていると、お詫びのメールが届いた。
これですっかり、ひとりきりか。
(ね、これで手を打ってよ)
人とすれ違うたびに、聞きなれない声が聞こえる。
(確かに、確かに、気をつけようか)
知らないアクセント。言葉。
(いいじゃないか、ありがたいことだろう)
音楽だけが、知っていた。どこで聴いた曲だったか。昔はよく自分も、ギターひとつで弾いたものだった。自分の故郷なら誰もが知っているこの曲は、この島でもおアツいらしい。丸いステージの上にはピアニストにボーカリストが貪るようにキスをしている。その熱愛に、取り囲んでいる客がはやし立てながら、踊り狂っている。
知らない人ばかりが、通り過ぎる。何人かに声をかけられたり、肩を叩かれたり、誘われるように腰をくねらせた男女に囲まれたときはさすがに困った。狼狽は疲労へと昇華し、気づけば水の入ったグラスだけを手に持って、追い立てられたように浜辺すぐそばに設けられているテーブル席に逃げた。 パラソルはすっかり砂まみれだ。海風のせいだろう。
暗闇の先には海が広がっている。とても静かだ。
耳を澄ますと、浜の奥の方でクスクスと笑う声が聞こえる。腕を絡ませ、キスをしているカップルの姿が浮かんでくる。まるで沼の中でもつれる糸みたいだ。気味が悪くなって、浜辺の方にも行けないなと、潔く諦めた。
テーブルの上には飲みかけのソーダと食べかけの料理がごっちゃりと散乱している。
そうなると、残る場所は茂みの傍のレンガ道。腰を下ろして、これからどうしたものかと考える。
戻れば、また色んな人に絡まれるだろう。
海へ行けば、嫌なものを見るだろう。
かといってこんなところでいつまでもぼー、とするわけにもいかない。
刺激を求めて、ここまできた。じゅうぶんな刺激が確かにパーティにはあったはずなのに。
なぜだろう。この島に訪れてから、どこか物足りない感じがする。求めていたものに、触れそうで触れられないこのもどかしさ。
きっかけは、いったい。
「海は好きかい」
声が聞こえたことに驚いて、思わず、え、と声を上げる。
「それともお酒が苦手だったのかな?」
ふふ、と、笑う声も聞こえてきた。すぐ隣に、誰か座っている。いつのまに。
「アルコールの匂い、ここはしないよね。海がの匂いがかき消してくれる」
驚くばかりの自分に対し、相手はのんきに話しを続ける。
暗闇に、表情も姿も見えない。言葉だけがぽっかりと耳に入り込んできた。綺麗な声だった。それは確かに男の声で、でもどこか、艶のある声だった。
「きみは、何から逃げてきたのかな」
びっくりした。逃げてきた。そうだ、確かに自分は逃げてきたのだ。
パーティからも。現実からも。
どうして分かったんだろう。
「疲れたような顔をしている」
どうして、分かったんだろう。こんなにも暗いのに。もしかしたら色素の薄い目をしているのかもしれない。光を集める力の強い、それなのに儚げだと思わずにはいられない色。
見たく、なってしまう。
コン、と、なにか柔らかいものに手がぶつかった。そのとき。
バチ、と、吊り上げられたように明るくなる。彼の後ろから光が迫り来る。
「ひとりになったんだ、ボクも」
壊れていたはずの頭上のランプが、タイミングよく息を吹き返した。
逆光は、彼の目だけを浮き彫りにする。確かに、色素が薄い瞳をしていた。予感は当たった。
あぁ。やっぱり──たまらなく綺麗な人だった。
彼の姿が、ゆっくりと浮かんでくる。
明るみに晒されたその人は、勝手に想像していた姿とまったく同じだった。本当に、綺麗な人。艶やかな人。そして、どことなく儚い人。
光を散りばめたように輝く銀色の髪に、色素がごっそり抜けた、限りなく透明に近い瞳の色。水に、一滴だけ銀を混ぜたような色だった。どうみてもこっちの人ではない。喋る言葉にところどころ特徴があることから、おそらく、カントー地方か、そこらへんから来たのだろう。船を使えば、ホウエンからはあっという間に来れるらしいのを聞いたことがある。
服装はとてもラフだった。
水色のインナーの上に、半袖の白いシャツを羽織っているだけ。ハーフパンツも涼し気な水色。そして、歩きやすそうなサンダルを履いてる。
歩く度に、チャラ、と音が聞こえる。なんの音だろう、ってまじまじと見たら、胸元にあるネックレスとサングラスがぶつかる音だった。ネックレスは、真珠のような、オパールのような、不思議な石がついている。石に疎い自分には、石の種類まではさすがにわからなかった。
彼が立ち上がったとき、海辺から潮風が入ってきた。視界の邪魔になったのか、耳に髪をかける。その左の手首には、重そうな腕輪が、そして人差し指と薬指にも、重そうな指輪が嵌められていた。
思ったよりはゴツくはないはずのシルバーアクセサリーがそう見えるのは、彼の手と指が、案外ほっそりしているからだ。手首から腕にかけて、なだらかに描かれた曲線はかなり華奢に見える。だから、倒錯が生じる。
手首だけじゃない。指だけじゃない。
服から伸びた足も、腕も、首も、なにもかもが細くて、白い。喉仏だけが、ぽっこりと、不自然に骨格を強調した。
レンガで出来た階段の、踊り場に差し掛かるところで、彼がふ、と振り返った。
バチ、と、目が合う。
「……ふふ、」
まじまじと見ていたことがバレてしまった。上品な笑顔なのにどことなく無邪気な姿に、射抜かれてしまう。瞬きすら、惜しい。
「見すぎ」
笑うともっと綺麗だ。喋るともっと心臓が痺れていく。骨が抜かれる感覚とは、まさにこのことなのだ。
耳からも、目からも、電流が少しずつ流れていって、鼓膜を揺るがし、肉が痺れる。染み込んだ熱と電流は、やがて骨にまで回って脊髄をゾクゾクさせる。背筋から伸びていった痺れは、脳まで届く。ガツン、ッと、ハンマーで頭を殴られたかのようにクラクラし、やがて心臓がうるさくなっていく。
ドクン、ドクンッ、と。
「……大丈夫?」
顔が熱い。たまらなく、熱い。心臓の皮膚が破けそうだ。胸を抑える自分の顔を、心配そうに彼が覗き込んできた。
声は和らげなのに、目は、鋭かった。自信満々な笑みだ。動揺しても、不思議と、目は逸らせない。
ドクン、ドクン、と。心臓の音がうるさい。
「はしゃぎかたが分からないんだ、ボク」
息が上がる。呼吸の音と、心臓の音。そして、彼の声が、耳元で鼓膜を揺らす。
ねぇ、
「教えてよ」
グイッと、強く腕を引っ張られる。どぶん、と、波に溺れる感覚が急にして、叫び声を上げた。足がもつれる。
ぷは、と顔を上げた。まぶしかった。そして、うるさかった。汗の匂いがした。アルコールの匂いがした。
いつの間にか、自分はパーティの会場に連れ戻されていた。
どうして、と首を傾げる暇もなく、人混みにもみくちゃにされる。誰かの足に引っかかり、転びそうになったのを彼の手がまたもう一度ぐいっと強く引っ張ってくる。
「こっちだ」
至近距離。手繰り寄せられて、顔と顔がぶつかりそうになった。彼は、によりと笑っていた。
無邪気なその顔はまるで子どものように幼く感じるのに、彼から漂う雰囲気は妖艶だった。倒錯的な光景に、目が離せない。彼の手を握った腕がそのまま引きちぎられる勢いで、一緒に、人混みにもみくちゃにされる。
目が焦げてしまったかのように、チカチカする。
ボーイとすれ違って、ショットを奪うように掴んだ。そのまま勢いよく喉に流し込む姿に、彼が目を見開いた。気分が良かった。そんな表情するんだ、って脳みそが溶けそうになる。テキーラと岩塩が染み込んで、鼻あたりが熱い。
彼は驚いてはいたけど、すぐに満足そうに目を細めて、同じように誰かからショットグラスをもらうと、テキーラを一気飲みした。
そうして無造作にテーブルに置くと、
「ステップのやりかた、分かる? こうやって、」
まずは、足先でビートを刻む。リズムに合わせて腰を捻ると、ターンをした。長い足は、少しでも傾けば誰かと絡まってしまいそうなのに、器用に避けて一回転。上半身を曲げて、上目遣いに、誘ってくる。
「さぁ、同じように」
サビに入った音楽は、もう一度同じメロディーが入る。一番盛り上がるところで、彼と同じようにくるりと回った。ちょっと失敗して、前によろけると、彼はいとも容易く腕で支えてくれる。意外とたくましい腕と体幹はビクともしなかった。
じわりと、背中の汗でシャツが滲んだ。
「いい感じ」
屈託のない言葉。 笑顔で、ぎゅ、っと、抱きしめてくれる。ビクッと肩が跳ねる。身動きが取れない。
指の力が抜けて、ショットグラスが落ちる。
パリン! という音が足元で破裂した。
「……元気でたね」
耳元で囁かれる声は、酷く落ち着いていて、なんだか心地が良かった。耳馴染みがいい明るめのテノール。
「そっちの方が、いいよ、きみ。らしさがでてる」
また、音がうっすら消えていく。周りの音が遠ざかっていく。けたたましく鳴るラジオを、海の中に落としてしまって、次第に波でこごもっていくように。
心臓の音。彼の、呼吸の音、息遣い。
皮膚の温度。汗の匂い。落としてしまった、テキーラのアルコールが鼻をツンッとさせた。
宙に浮いたままの腕に力が入らない。このまま力を入れていいのだろうか。
その背中を抱きしめて。そのうなじに手を絡めて、その髪を撫でて、そして。
肩に埋もれた顔が、くっく、と揺れる。こそばゆいのを堪えきれなかったように。
彼が面を軽くあげると、鼻と鼻がぶつかりそうになった。相も変わらず、肩口にすり寄ったままの彼の頬は、少し赤らんでいた。
ね、と、彼が首を傾げる。喉仏も、熟れたように真っ赤だった。
「して、みる?」
唇は、ぷっくりと腫れていた。あ、れ、唇の端に──
「 」
ドン、という音で声が掻き消された。次の曲に入るドラムの合図だ。そして、歓声。
夢のような瞬間を、無理やり起こされたように感じて、彼を引き剥がす。肩に手を置いたまま、息を荒らげた。
危なかった。危な、かった。
あのままペースに飲み込まれたら、今頃自分は何をしていた?
この感覚。指先が痺れて、脳みそが焦がされて、判断や指示を誤ったとき、まるで命の危機に晒されてしまうような瞬間を、自分はよく知っていた。
なんだか酷く懐かしい。まるで、遠い昔、幼き頃。初めてポケモンリーグに挑戦したあのときみたいだ。
苦戦した思い出しかないけれども、確かに掴んだ勝利の瞬間が蘇ってくる。
心臓の音で胸が張り裂けそうになり、拍手喝采でほとばしっていく脳の痺れが、今でも忘れられない。あのときの瞬間みたいに、足が震えている。緊張なのか、それとも。
この気持ちはなんだろう。なぜ、こんなにも奮い立つなにかを感じているんだろう。
ば、と。肩に置いた手を引っ張られて、足がもつれた。面をあげると、彼は、相も変わらず楽しそうにニコニコしている。
自分の手を離すと、彼は疲れたのか、膝を抑える。はぁはぁ、と息をして、上半身が縦に揺れていた。
前髪から汗が垂れて、喉仏を滑っていく。呼吸をするたび、胸元のネックレスが揺れた。サングラスが、落ちそうになって、キラリと光った。 肌が白いせいで、胸あたりは赤く火照っていたことがやけに目についた。
「汗、かいちゃったね」
彼がにっこり笑って顔をあげてそう言うと、匂いがした。
なんの匂いだろう。汗の匂いにしては爽やかすぎて、香水にしてはすっきりしていた。色んな匂いが混ざっているのに、嗅げば嗅ぐほど、惹き付けられる。
「ね……」
輝かしい笑顔は、はぁ、はぁ、と、息を整えるたびに真っ赤に染まる。 頬。喉仏、そして、今は耳たぶまでもが。
「お腹、すいた?」
ぷっくり。腫れている、真っ赤な唇。
唇の皮膚は、よくよく見ると、誰かに噛みつかれたのか自分で噛み切ってしまったのか、少し破けていて鬱血していた。
「ご飯でも食べようか」
息を絶え絶えにして彼はこっちを見た。きみの好きなものでも、と。
そう付け加えて、右手を柔らかく握りしめる。
案外その皮膚は硬く、少しカサついていた。
そうして、ついていった場所は、彼と出会った海辺側のテーブル席だった。パーティ会場の好きな食べ物をいくつか拾った皿をどっかりと置く。飲み物は、自分が持っていた。炭酸水の入ったグラス二つを挟むように置くと、まず自分から席についた。
彼は向かい合っていた椅子を自分のすぐ隣に引き寄せてから座った。肩と肩があと少しでぶつかりそうなほど近い。
ソワソワする。膝が震える。本当に近くて。
ひくひくする。鼻が痛い。匂いが強くて。
酒の匂いでもない。海の匂いでもない。
目も痛くなってきた。まるで、刺激の強い香辛料を顔にぶっかけられたようだった。
彼が口を開く。
「最初、」
ゆっくりと、最初、という言葉が、バラバラになって、もう一度ひとつの単語に収まって、繰り返し反響する。頭が、クラクラする。飲みすぎた翌日の朝みたいな気分だった。
肩がぶつかりそうになって、誤魔化すように炭酸水を飲んだ。喉でパチパチと弾ける刺激で、なんとか、冷静を保ったけれども。
なのに、身体は正直だ。熱くてたまらないのに、気になってしまうし、もっと、嗅ぎたいと息を深く吸ってしまう。煙草と同じだ、こんなもん。中毒にされそう。
「ひとめみたとき、様子がおかしかったんだ。きみ」
だからね、とスラッとした指をグラスに滑らした。
「せっかく楽しい場所に来たんだから、楽しんだ方が得をすると、そうは思わないかい」
喉が渇いたのか、彼はそう言うと一気にグラスの中を飲みきって、笑う。ごくり、と動いた白い喉仏に、目が離せなかった。細い首に浮き彫りになっているそれは、珊瑚の白化みたいに美しくて、どこかちぐはぐな気味悪さもあった。
グラスを伝う水滴と彼の喉仏に伝う汗が重なる。氷が溶けて、割れる音がやけに大袈裟に聞こえた。
バキ、カラン、と。
「楽しい、ってことを教えようか。ボクにとってだけど」
ゴロ、と、ポケットから何かを取りだした。背中に大きくて丸みの帯びた棘がいくつかある、大きな貝殻だった。
「見て。……触って」
彼が手を重ねた自分の手のひらを拾い上げると、貝殻の上にのせる。驚いた目を向けると、彼はニコリと笑った。
手のひらの皮膚に、チクチクとした痛みがある。何の貝殻だったろうか。
グッと、手を握りしめる指の力が強くなった。射抜かれたように彼の目から目を逸らせなかった。
「ボクはきみを知っている。きみを見たんだ。だから、今度は触ってみたくなった」
知っている? 見ている? どこで。いつ。
「きみのことをもっと知りたいってことだよ。……伝わってたら、嬉しいな」
そういって小首を傾げる。脳にバチッとした痺れが走った。痛い。
痛い、指が、手のひらが。
貝殻はザラザラしていた。棘は案外鋭い。 それは上に乗っている彼の手のひらが力を込めたのではなく、自分の手のひらに力が入ってしまったから。
「……──深い、」
その唇に噛み付いたら、どんな味がするのだう。
その髪に触れたら、どんな感触なのだろう。
その胸元にキスをしたら、どんな匂いが、するのだろう。
「好奇心が抑えられなくなると、人間はどうなると思う?」
その言葉を聞いて、胸にストン、と何かが落ちてきた。
モヤモヤしていた気持ちがスッと晴れた気持ちにも似ている。胸の奥でグツグツと煮えていたものが、やっとその名前が分かった。
鼻から吸い込んで、心臓に落ちて、胃からせりあがり、喉を通り過ぎて、舌に転がり落ちる。
深く息を吸って、吐く。
欲しい。たまらなく──欲しい
きみがまた、首を傾げる。細めた目の中に澱む光が滲んで、唇はぷっくりと赤く膨らんだ。
もう一度、今度こそちゃんと。
吸って、息を吸って、そして──
「──……ダイゴ」
被さった声は、きみのものでも、自分自身のものでもなかった。
「もうやめてあげろ」
そ、っと、影が後ろから伸びてきた。伸びた影は、きみに覆いかぶさり、貝がらに乗っかったままの手のひらを、優しく剥がしていく。
武骨な手だった。たくましい腕だった。
声は優しげだった。和らげだった。耳馴染みのいい、落ち着いた声だった。だけど、どこか寂しそうにも、呆れているようにも聞こえて、心臓の奥がキュ、と紐で縛られたような痛みが走った。
影は、すぐ、後ろに。そしてその影の気配に気づいた隣の彼は、ふ、と、武骨な指に握られたままの手の甲を見つめながら、寂しそうに笑った。
来てしまったのか。そうか。来たんだ。あと少しだったのに、
と、小声で囁いたのが隣からかすかに聞こえて、どういう意味なんだろうと、首を傾げた。
振り返って、面をあげる。
影の正体は、ひとりの男。
気配が全くしなかったから、というのもあるけど、なぜか、全身の毛が立つほどに怖い、と思った。理由は分からなかった。
得体の知れないものだと感じているからなのだろうか。でも、それにしては、優しい気配だった。
ゆっくりと、目だけをこちらに向けると男の口が開いた。
やっぱり、たまらなく優しい声だった。
「きみ、」
濃度が深い黒い目は、まるで同じ人間とは思えない鋭さがあった。
第一印象は男らしい、だった。かっこよくて、勇ましくて、逞しい男だった。筋肉も健康的についていて、海に泳ぎに行っていたのか水着に上着だけを羽織っていたその男の前髪は、汗で少し乱れている。
目線を彼に戻す。相も変わらず黙ったまま、ただ重なる手のひらをじ、っと観察するように見ている彼。それを見下ろす横顔は、眉を垂らして、まるで呆れている印象を抱いた。
黒く光る目が、僅かに揺れていたのは、おそらく、少し安堵したからなのだろう。
「連れが、迷惑をかけたね」
重ねていた手を、ぎゅ、っと握りしめると。
「くるんだ。……大人しく」
匂いが、した。彼とよく似た匂い。でも、彼の匂いにちょっぴりスパイスを足したような匂いだった。
男の人は、上半身を折り曲げると、顔を低くする。二人の顔が、密着した。
彼の耳元に口を寄せて男の人が囁いた声は、吐息をこぼすようで、色気があった。あまりにも強烈な光景で鼻筋に血が煮えたぎったように、顔が熱くなる。言葉はよく聞こえなかった。
相も変わらず目線を合わせない彼は、俯いたまま笑う。仕方ないなぁとでも言うように、ぷっくり赤く腫れた唇が動いたのを、確かに見た。
「ごめんね」
彼は、自分の方を見て最後にそう言うと、男の人が空いたもう片方の手を彼の脇に差し込むと、そのまま椅子を引きずる勢いで彼を立たせた。
ギィ、と錆びた椅子の足が悲鳴をあげる。静かな夜の海辺には、よく響いた。
──ダイゴ
頭にゆっくり響いた、三つの音。
自分が彼の名前すらも知らなかったことに、そこでようやく思い知った。何も知らないのに、自分は何をしようと思ったのだろう。
男の人が言った言葉が引っかかる。
もうやめてあげろ、と確かに言った。やめてあげる、って、何のことを指したのか。
たったそれだけの言葉で、彼と自分の間にどうやったって壊すことができない分厚い壁が隔たったような気がした。男の人と、彼しか知ることが出来ない秘密ごとを、そこらじゅうにぶち撒かれたような気分だった。
男の人が、彼の肩を支えて去っていく。自分は立つことすらもできなかった。空っぽになった右手は、貝の針に刺されるばかりで、チクチクと痛みが走る。
手の皮膚が痛い。胸も痛い。頭もズキズキする。
一言叫べば済む話だった。
行かないで。そばにいて。離れないで、ここにいて欲しい。
そんな安直な言葉は、いくらでもあった。
でも。
「ッ……」
手のひらがあまりにも痛くて、振り返れなかった。お酒のせいで、頭も痛い。喉もカラカラなせいで声すらも出せなかった。骨と骨との関節もミシミシする。鼻はずっとヒクヒクしている。吐き気がしてきた。匂いがずっと、こびりついてる。
アルコールの匂い。潮の匂い。汗の匂い。そして、あの人の、匂いと、その元。
貝殻を放した手をひっくりかえすと、血が豆のように膨らんで、小さく溢れてきた。いつの間にか、棘で皮膚が裂けてしまったらしい。それほど、手の力が入っていた。
貝殻の表皮は脆く、パリパリに乾燥した絵の具を砕いてしまったかのように、色んな色が混ざった破片が、自分の手のひらのあちこちに細かくこびり付いている。
もう一度、強く貝殻を握りしめた。
胸の痛みを、誤魔化すために。嗚咽の言い訳を作るために。
この、ミドルノートを、忘れるために。
