燃ゆる彗星①〜⑤ - 18/18

 雑踏に紛れてしまいたいときが、ときおりある。
 忘れたいこと。忘れていたいこと。
 人の肩と擦れるように歩けば、自分の輪郭がその摩擦で段々削れて、無くなっていく気がした。置いていきたい思い出ごと剥がれてしまえば、すっきりすることもある。
 頭を空っぽにするようなものだった。
 人に溶け込むことは、自分自身のあり方を見つめ直すきっかけだと思うんだ。
 今までの自分のことを忘れることは、これからの自分を考えること。
 それなのに、人の群れに消え去って紛れて溶け込んだにも関わらず。
 誰かにみつけてもらえたとき、それは。
 誰かにとって、特別だということ。

「ミクリは、そういうのが誰よりもうまかったな」
「ミクリさんって、あのミクリさんですか?」

 背中を向いていたその人は、くるっと身体を回してこちらを見た。手に持っていたグラスを丁寧に拭きながら、薄暗いカウンター越しに驚いた顔をする。

「そうですよ。ボクの自慢の友人です」
「うわぁ、嬉しいなぁ。わたしの娘が大ファンなんです」

 サービスしておきますね、と肩を弾ませながら、店の若いマスターはグラスを上にぶら下げた。

「ぜひともここを紹介しますよ」
「ミクリさん。トバリに来てくれるお人ですかね」
「それは分からないな。でも、興味はあると思います」

 ボクがそう言うとマスターは歯を見せて頷いた。

「期待します」

 照明がひときわ暗くなった。遠くの方でギターの音が大きくなる。

「知らない曲だ」
「有名なものですよ。……てことは外れですね」
「ハズレって……」
「あなたの職業をずっと考えていたんです。出すお酒の種類が変わるでしょう?」
「あぁ、なるほど」
「ご趣味は?」
「石掘りです」
「また外れた」

 悔しそうにすれば、後ろに置かれた瓶を一つ掴む。

「こんなにも予想が外れるなんて初めてですよ。これでも観察力だけは自慢でしたが」

 氷を割って、ナイフで削る。

「ロックは嗜まれますか。何にしましょう。もしくはあなたのお好きなものをどうぞなんでも」
「人に言われたものですが、好きなものを話すと、どうにも止まらなくなってしまうらしくて」
「そのための場所です」

 お酒はさらけだすのにもってこい。と、マスターは削った氷クズを落としながら語る。

「その通りですね」

 氷をグラスに落として、ウイスキーを注ぐ。琥珀色に満たされていくグラスの中で、氷がツヤツヤになっていった。

「綺麗なカットだ」
「石掘りが趣味の人に言われるとなんだか違って聞こえるな」

 二人で笑い合う。ふと、ラジオの音が聞こえた。隣の席には、若い男女が小さなラジオを間に挟んで座っている。

「あれ、店のものです。どうしても聞きたい放送があるんですって」

 マスターが困ったように笑って言う。カップルなのか、頭を突き合わせてひそひそ嬉しそうに話していた。女の人が長い爪をスピーカーに向ける。

「素敵だわ、ねぇ。いい線いってる」

 男の人はうっとりした。

「セキエイの、……たしか彼は、ドラゴン使いだったね。相手はどうかな」
 
 その言葉に、グラスを傾けていた手が止まる。

「あぁ、だから……防衛戦のことだったのか」

 シロナさんのもの、確か昨日だったなぁ。とひとりごちながらマスターは悔しそうな表情をした。
 ラジオの音をききつけたのはボクらだけじゃなかった。その後ろのテーブルも。さらに隣の席も。通りすがりの店員ですらも。
 みんながみんな、きみに夢中になっている。すごいね、ラジオで聞き取れる情報なんて、ほんの些細なのに。
 でも。
 次々に歓声が上がって、注目を浴びたその声の正体。みな耳を奪われた視線の先。
 ジャズの音は遠ざかる。徐々にボリュームが大きくなっていくラジオ越しの声は、たまらなく。

「変わらないな」

 肘をついて思わず出てしまった言葉。

「まさか、お知り合いですか?」

 目を丸くしたマスターに、ボクは、

「ふふ」

 お知り合い、かぁ。

「どうだろうね」

 ボクは、くすぐったく笑って、新しく出されたカクテルを飲み込んだ。
 防衛戦。その高み。ホウエンから離れた月日は長く、気づけば遠くまで足を運んだものだ。
 思い出したあれそれ。火傷跡が剥がれ落ちたことが示すのは、それだけの歳月が流れていたという事実。
 ふと、故郷のことを思い馳せてしまった足は、じっとすることなんてできなかった。
 歩いた。シンオウ地方を歩いて、歩きまくって、気づけば夜になって、トバリシティにたどり着いた。ネオンでギラギラな夜に、帰るにはもったいなくて、このお店を見つけた。
 雑踏から離れた落ち着いたジャズバー。薄暗いオレンジ色が落とされた店内は、人でごった返し。タバコにアルコールに、ジャズの音に、人がいいマスター。
 様々な人。様々なポケモン。色んな音に、色んな声。色んな匂い。
 吸い込まれるように人と人の合間を縫って、カウンターにぽっかり空いていた二席を見つける。なんとなく座った。
 心の中でトクントクン、と、忙しなく興奮した心臓を落ち着かせたくて、ただ赴くままに席についた。

「また、会えるなんて」

 ラジオの音が、繰り返し繰り返し聞こえる。音が反響して、ポケモンの咆哮が店を突破った。雄叫びのような歓声や口笛があがるなかで、ボクだけが静かにお酒を飲んでいた。
 ポケモン勝負。みんながみんな好きなんだな、って嬉しくなった。
 心臓がうるさい。鼓動の音は、たぶん、高揚して、気分が良かったから。楽しそうなバトルの様子を感じると、自分のことのように思えてしまう。
 それだけでもこの上なく幸せだったのに、さらにはお酒が本当に美味しくて。カクテルもすごく綺麗で。シンオウ地方で出会った石を思い出しちゃって、語れば、優しいマスターはその石のイメージしたカクテルを次々に出してくれるものだから。
 がら空きの左隣。止める人はいないものだから。それはそれは。
 気分がいい。気分がいいから、たくさん話してしまった。大切な、かけがえのない思い出とか。友人とか。いままで出会ってきたポケモン、人、それと、石の話。
 嬉しくなれば、饒舌になり、饒舌になれば、お酒は進む。上げ下げされたカクテルはどれも飲みやすくて、人に勧めたくなった。
 ホウエンに残したみんなに。友人に。家族に。
 もし、シンオウ地方に誰かと来たら、もしくはシンオウ地方に誰かが行くなら、たくさん話してあげたい。
 ボクが、シンオウ地方で何を得て、何と出会って、素敵ななにかがボクにどんな変化をもたらしたか。
 たくさん歩いた。シンオウ地方だけじゃなくて。
 ガラル地方、アローラ地方、カロス地方。
 イッシュに、それに。ほかにもたくさん、たくさん。
 話してあげたいな。みんな、元気かな。
 リーグのみんな。ジムリーダーのあの人、その人。おやじに、ルチアちゃん、ミクリ。
 そして、あの子にも、いつか。
 ボクは、世界を歩いてきた。この目でこの足で。直接。それを支えてくれたみんなが、本当に。

「愛おしくてたまらないわけだ」

 あははは、と誰かが笑った。大勢の若い男性の声。

「それで。あんたまだ続いてるわけ」

 遠くのテーブルで、揶揄している声に、不満な声が跳ね返る。拗ねた声は、若々しかった。まだ、学生なのかも。

「仕方ないだろう。ずっと、なんだ」

 ぐらついた視界に波紋が揺れるたくさんの声が、混ざりに混ざって、頭は沸騰しそうになった。

「お客さん。大丈夫かね。お連れの方は」

 倒れそうになった女性を、気遣う初老の男性が手を挙げた。隣のテーブルだ。ステージから一番近い席に座っている女性が店員を呼び止める。

「お水をいただけるかしら」

 頷いた店員はボクの後ろを通り過ぎ、カウンターの奥へ。向こうの壁際に寄りかかりタバコを吸っていた女性が、鋭い爪で灰皿にすり潰した。

「きっともうダメなのよ
  ねぇ、外行きましょ

 誰の声がどの声で、どの声がどこからで。分からなくなる。酩酊状態。

 前から気になっていたこと、そのことについて
 俺はヤダって言ったんだ。それなのにさ
 トバリシティの当たり、知ってる?
 ねぇこちらの席にいらっしゃらない。ちょうどね
 マスター。マスター大変だ

 お水。おみず、のまないと。どこだ。ガツン、と小指が何かにぶつかった。ガシャン、という音。まさかこぼした。違う。たぶん、落ちたのは別のものだ。
 何が落ちた。

 ところであんた。コートが
 結構だよ。探している人がいるんだ

 水は諦めよう。遠くに聞こえるジャズの音が何度も何度も頭の中で反芻する。ラジオの音も混ざりに混ざって。またポケモンの咆哮が聞こえた。拍手が広がる。輪を描いて広がって、ピアノにギターにサックスに、あと、あの楽器なんだっけ。ぐるぐる回って。なんの曲だっけ。
 なんだっけ。

 この前カロスに行ってきたよ。ほら、みて。これがあの有名な
 わたしの街ではタッグバトルが流行っているそうよ。ねぇ一緒に
 あれおかしいな。確かにぼく今

 あれ、ボク。なにするんだったかな。どこにいて、今ボクは。

 もう、みんな、変わっちまったなぁ。あの頃が懐かしいよ。みんなで、走り回ってさ。故郷を離れた今、なんだかな

 そう、変わったんだ。ボク。いつからだったかな。

 大人になっちまったなぁ

 大人に。

「ッ……と」

 バチッと目がやられて痛い。頭が後ろに落ちそうになって、かぶりをふる。まずい。飲みすぎた。
 頭が重い。カウンターに顔を横たえたら、みっともないだろう。やっぱりお水を飲もう。
 肘をついた右手で頭を支え、前髪をクシャ、とさせた。水を探るに左手を動かす。左へ、左へ。カウンターに手を滑らすけど、どうしてもお水の入ったグラスは見つからない。
 ゴゴ、と横が地割れしたのか揺れる。洞窟みたいだなぁ。また落ちるのかな。足がぶらついてる感覚もある。
 なんの音。なんだっけ、この音。ラジオから聞こえているものだった。ような。

 お連れの方でしょうか。かなり飲まれてしまって、
 そうみたいだ。どうやらね

 声が遠のく。ぐらぐらと歪む音。あれ、うん……。うん、知ってる。なんだったかな。
 この、音。

 きっと、彼は、」

 この、声。

「ずっと、……、待っていたはずだから」

 テーブルに置かれていた左手に、そ、と何かが触れる。
  面をあげる。ぐらついた視界。ぐつぐつと煮立つ光景が、少しづつ、はっきりしていく。
 バラバラに歪んだ輪郭が、一つへとまとまっていく。
 優しく微笑んで、ボクを見つめている黒い目に、呆れたように眉を垂らして。

「そうだろ。……ダイゴ」

 呼ばれた名前に、バチ、と、刺激が走った。耳に溶け込んだたった三つの音に。ピーン、と弾かれて。
 ボクの名前だ。そう。
 どうして、知ってるんだろう。
 どうして、いるんだろう。
 きみが、……どうして。
 ラジオから飛び出てきたのだろうか。だって、それは、

「……──ワタル、の声」

 ボクがきみの名前を呼んだ途端、きみの輪郭が世界から縁どられたように眩く輝く。実際のところ、きみの身体の輪郭を描いたのは、きみの後ろから伸びる穏やかな光だった。
 逆光で黒く塗りつぶされ、表情は見えないのに。確かにボクの目には、チカチカと白く輝いているように見えた。
 ガタッ、と動揺したあまり、椅子から浮いてしまった腰を引こうとするけど、掴まれていた強い力に手繰り戻される。

「どこにいくんだ。ダメだろ。フラフラな足じゃ、落ちてしまう」

 ボクは椅子に座り直す。カウンターに置かれている、ボクの左手。重なっておかれている、大きな右手。
 しっかりとした感触。硬い筋に、分厚い皮膚。骨がゴツゴツしていて、たまらなく熱かった。

「…………ワタル?」
「なんだい」
「ッ……わ、」

 声がひっくりかえった。ボクの声に、当たり前のように返事をしたものだから。
 本物。……本物って?

「ッ……ワ、タル……!?」
「どうしたんだ」

 何が面白いのか、くすくすと、こそばゆく笑っている。たいしてボクは、ぽかんとしてしまった。

「あ……」

 頬に触れた。優しい皮膚。触った感覚は、本物。確かに、

「…………あつい……?」
「酔いは冷めたみたいだな」

 ワタルがその手を掴んでくる。今度は彼がボクの頬に手を伸ばしてきた。彼の手の甲が触れたせいで燃ゆるボクの頬。
 熱い。
 お酒に溺れてますます熱くなった体温がカッ、と茹だる。

「きみが。ここにいるわけがないよ」
「なら、……外に出よう」

 腕を引かれて、椅子の音が大袈裟に鳴った。コート二人分とボクのマフラーを腕にかけたワタルに慌てて、

「まって、お会計」
「もう済ませた」

 そのまま強く繋がれたまま、バーから連れ出される。

 

 

 静かに流れていたジャズの音は消えていく。
 大人しい色彩の光に落とされていたバーの空間から離れ、トバリシティの暗がりへと、ボクとワタルは歩いていく。人の喧騒の中、肩を擦るように避けながら。

「大騒ぎだよ」

 店の中、きっと今ごろ。とボクは言葉を続けた。

「防衛戦のラジオを聞いていた人たちがいるんだ。きみのだった」
「あぁ、どおりで。やけに声をかけられると思った」

 手を繋がれたまま、ボクはワタルのコートの裾がひらめくのをただ見つめ、その背中を追いかける。 振り向かずにワタルが言う。

「きみの隣にたどり着くまで、苦労したよ」

 その言葉にどう返事を返そうか迷っていると、口を開いたのはワタルの方が先だった。

「一年ぶりだな」

 立ち止まって、ようやく振り向いてくる。トバリシティのネオンがかろうじて届く路地裏の途中。薄暗い色彩の中、優しく笑っていた。
 一年。そうか、もう、彼と別れてから一年だ。

「よく、」

 一年という歳月は、等しく長いものなのに。

「ボクだって、分かったね」
「分かるさ。当たり前だろ」

 返事は即答だった。

「どうして。聞きたいことがたくさんあるけど」
「そうだろうな。でも、今はまず、」

 ワタルはボクのほうに歩みよってくる。手に持っていたボクのマフラーを首に伸ばしてきて、グルグルと巻いてきた。

「鼻が真っ赤だ」

 マフラーに埋まった口と鼻から息を吐くと、ほぉ、とワタルとボクの間に白いモヤが漂う。あっけに取られているボクに、ひたすらに、ワタルは喉を鳴らして笑うばかりだった。

「ひどい酔い方をしていたしな」

 ワタルがボクの手を取って、心臓がはねた。ワタルの手は、やっぱり、相も変わらず熱かったから。そしてボクの手は、酷く冷えきっていたから。

「きみにこれを。届けに来たんだ」

 チャリ、と、冷たい感触。手を開いて、目だけで確認すると、それは。

「急で悪いな。でも、頼みごとがある。ダイゴ。きみに、どうしても」

 それは、ボクが無くしていたはずだった、別荘の鍵。あちこちが錆びて、傷がついている。
 ボクは目を見開いて、ワタルの顔を見つめた。
 驚いたのは、別荘の鍵をなぜ、ワタルが持っていること。そして、その、言葉。
 どうしても、ってなに。きみがそんな言葉を言うなんて、よっぽどのことだったから。
 ワタルは、鍵を持つボクの手を両手で握りしめる。
 ほう、と、また白い息が二人の間に漂った。

「いいかな」

 なにが、と聞く前に、言葉を飲み込んでしまった。言葉が出てこなかった。静かなトバリの路地裏。暗がりに、ワタルの声だけがポツン、と浮かぶ。
 はっきりと。

「泊めてもらっても」

 きみの家に。