「おすそわけ」
また別の人に用事があるからと、そっと唇を離して会場に戻っていった背中を目で送った。最後にひらりと振った彼の手の指は細く、白く、そして長かった。
ぽつん、と一人とり残されたバルコニーに吹く風は冷たく、静かだった。会場の騒がしさからくっきり切り離されている空間に溜め息が響く。
まいったな。その一言に尽きる。
「…………」
口元に手を当てて、思案する。ダメだ。
口元から手を離して、手すりにもたれ掛かる。空を見上げた。
ダメだ。
どうしたものか、と酒の匂いが残る歯を舌でザラりと拭いとった。アルコールの独特な匂いは、上品さが漂っていた。いっそ、酩酊状態にしてくれた方がマシではないのか。これでは生殺しだ。
「あの」
話しかけられて、弾かれたように姿勢を正す。目の前には驚いた顔をした男がいた。
「ワタルさん、ですよね」
前にりゅうせいの滝まで案内してくれた父親だった。間違いない。眼鏡のレンズ越しに微笑む姿は、やはり、小さい娘とよく似ている。
笑って頷くと、男は、ぱぁ、と顔を明るくさせた。
「またお会いできるとは思わなかったです」
はにかんだ彼は水の入ったグラスを渡してくれた。チン、と軽く乾杯を。
「お仕事なんでしょう? 髪型が少し違うものですから、驚きましたよ。人違いだったらどうしようかと」
「厄介な飛び入り仕事で」
「だからバルコニーに?」
「……」
何も返さない俺に、ふふ、と男は笑って水をグイッと飲み込んだ。
「潜入調査ですか? あなたの活躍は新聞でチェックしてるんですよ」
「ゾッとしないね」
「はは。あなたがここにいるってことは、やはりあの噂の信憑性が高くなってきたな」
「……噂?」
ぴく、と、眉を吊り上げた。噂、信憑性。嫌な予感が繋がる。
「僕の方は、シルフ代表で来たのですが、少し前にカントー地方中を大騒ぎにした事件を思い出しますねえ。少年の活躍というものはまぁ、なんといいますか、大人の力って情けないものというか……」
男はそう言いかけてかぶりを振る。
「いや、そんなことはどうでもいいんですよ。そう、前からあなたに話したいことがあってですね」
「話したいこと?」
「もうお知りになられているのかも知れませんが、ニューキンセツプロジェクトの──」
言葉が途切れる。続いた言葉に脳の筋が引っ張られるような痛みが走った。
「そうか、……ありがとう」
手すりにもたれかかっていた腰をあげてグラスを返した。
「いいことを、聞けたよ」
向かう先は、ひとつ。
──あなたがいらしたということは、護衛とは、つまりそういうことなんですね
「失礼」
談笑して盛り上がっていたテーブルに俺は近づいて声をかける。ちょうどどこか別室に移動しようとしていた彼らの間に滑り入るようにして、男の腕を掴んだ。
ダイゴの、腕を。
「こっちへ」
「え、ちょ、……っ」
真っ青な顔をした彼を引っ張って俺は会場をあとにした。ねっとりした視線は、まだ、会場のあちらこちらに残したまま。引き剥がすように。
バタン、と大きな扉が閉まる。
「ダイゴ」
誰もいない廊下で向き直って言う。
「あれはよくない」
「商談の話をしていただけだよ。どうし……」
「違う」
ひとつ息をついて腕を組んだ。ダイゴの態度はあまりにもだった。
『それで、このあとは。別室でどうかな。これからのことを』
『えぇ、ちょうど、僕の方でもあなたに話したいことがあったんです』
『へぇ、へぇ。どんな話を?』
『気になっていたんですよ、前から』
──あなたのこと。
いやらしい視線に囲まれながらそんな言い方を吐き散らせば、あっという間に剥ぎとられ、脱ぎ取られ、搾り取られる。そんな世界だ。そんな世界に、ポツン、と立っているダイゴだとしてもあまりにも異様だった。
「俺は前にきみに言ったね。見目もよく裁量も大きいきみが、ああいう男に、……」
特に、あんなゲスな男に。
「浮かれてしまう」
「でも、そうしなければ」
「そうしなければ?」
「ッ……」
ダイゴは黙った。歯を食いしばって。
「何か、隠してるな」
開けてしまいたくなる。いままで蓋をして抑え込んでいただけに過ぎない。
俺の、勝手な正義を振りかざさまいと。でも限界だった。あんな醜悪な光景は見るに耐えられない。
匂いは開ける前から悪臭だった。開ければ、予想より酷かった。
だから蓋を捨てた。蓋を捨てればもう中身をぶちまけるしかない。
「前から聞きたいことがあった。だけど、きみと俺の関係には必要のないことだと思ったから、やめた」
耐えられない。
「りゅうせいの滝、きみのボロボロのスーツには、かすかだが、火薬の匂いがした」
ダイゴはギグッ、と肩を震わした。そして逃げようと俺の手を振り払おうとする。
「どこに行くんだ。話はまだ終わっていない」
「今、終わった」
「きみだけの話だろう。俺はまだ、聞きたいことがあるんだ」
破ける音がした。なにが破ける音だろうか。鼓膜が裂ける音と似ている。俺じゃない。ダイゴのだ。
「きみ、……一人だけで問題を解決しようとしているんだろ」
破けたのは、俺たちが干渉するラインだ。
父親は声を潜ませて言った。バルコニーには俺たち以外誰もいないというのに、用心深い。
「少し前の話なんですが、ニューキンセツプロジェクトの頓挫の燻りが、別のところではまだ鎮火してないようで」
すべての出だしはそれだった。
「ダイキンセツホールディングスという企業を知っていますか? かつてこのホウエンでデボンと張り合っていた大きな企業があったのですが、」
その企業の名前はあまりにも有名なもの。ホウエン地方はもちろん、カントー、ジョウト、しまいには海を越えた先のイッシュまで、一連の話はメディアを騒がせたらしい。今になってその名前をまた聞くはめになるとは思わなかった。
「かつてデボンに、そのスパイがいたそうで。恨みを持つものも多いでしょうね」
「諜報員?」
「デボンは、止まることを知らない技術革新を持っていたと、根も葉もない話がどこでも浮上していたのですよ。シルフでもね。数十年ほど前でしたか。ダイキンセツホールディングスの劣悪な労働環境が明るみに晒されるのも、その頃でしたね」
父親は、言いにくそうに口をもごもごさせた。
「案の定、ダイキンセツホールディングスは潰されました。内からも、外からも、蝕まれて」
グイッと、粘りを丸ごと飲み込むように残りの水を一気に流し込む。
「環境問題が懸念されて、テッセンさんがニューキンセツプロジェクトを中止を決断したじゃないですか。あれ、世論では絶賛されましたが、従業員の間ではかなりの不満もあって……それはもう、酷くて」
ついこの前に読んだ新聞には、件の人が、確かにニューキンセツプロジェクトのすべてを話していた。酷い内容でよく覚えている。
この父親の娘には見せないと、とっさに隠した内容だった。
「弊社にもなだれ込んできた元出身のやつ、話してましたよ。俺、どうなるんだろうって、もし、シルフに来れなかったら、そのときの恨みをどこにぶつけよう、って」
悲しそうに話した。心をとてつもなく痛めたように、許せないように。
「怖いのは他にも。それから、合同調査隊がシーキンセツに派遣された時期がありましてね。ですが、その、ごそ、っと報告書が何者かによってデータを奪われてしまって……大騒ぎになったって話もあったな……デボンも何かを隠している気がするんですよね、って、」
思い出したかのように父親は空を見上げて、
「あぁ、デボンといえば……」
空になったグラスを欄干に置く。
「ツワブキさんに、一人息子さんがいらっしゃるでしょう。ほら、見目がよくて……そう、なかなかな人」
す、と、スーツのポケットから端末を出した。ポケギアだ。
「最近、なにかと噂されっぱなしで、あの人も大変ですね」
「……」
男が画面を見せてくる。醜悪な、記事がこびりついていた画面を。
「チャンピオンを辞めてから、本格的に何をしてるか分からず、ゴシップはぎらついてますよ。いいネタにしゃぶりつきがいがある、って、」
こことか、ほら、ひどい、と男は指で次々に画面を滑らす。
「週刊誌は、あまり嗜みませんか? ゴロゴロ出てきますよ。そのうち九割以上は、まぁ、でっちあげでしょうが」
これがなかなか酷くて、上手い言い回しが出来たもんです。女性社員にこの話をすると嫌がるんですよ、と、自分も得意ではないんですがね、と、男はつらつらと句読点も足さずに少し興奮して話し続ける。アルコールも無しに。どこか酩酊したように。
「脱線してしまった。僕の悪い癖だ」
苦笑いして頭をかいた。
「先ほどの噂の話に戻るのですがね。最近何かと上場した企業の役員が、実はダイキンセツホールディングスの元部下だとか……いえ、まだこの話はただの噂で。どこから湧いたかは知りませんが。関係の無いことでしょうね」
ピク、と眉をつり上げる。
「……いるのか、その男は」
あぁ、と、ポケギアを下ろして、
「いらしてますよ。ほら、あそこに」
人差し指の先には、男が一人。さきほど、いやらしい手つきでダイゴの腰をさすっていた奴だ。
今も、ダイゴの隣で笑っていた。
「誰にも言わないで」
縋ってきたダイゴに俺はただ静かに見つめてただけだった。俺のスーツの裾に伸ばしてきた手が震えている。瞼も。
「言わないで」
釘を刺すように同じことを、二度も言う。
「まだ、確信があるわけじゃないんだ。おおごとにしたくない。それに、」
スーツを掴む手に力が入って襟にシワが入る。きみが、気に入ってたはずのスーツだ。
それでも俺はなにもしなかった。言わなかった。
「この先には、入ってこないでほしい」
この先とは、つまり、ダイゴが触れられたくない居場所だ。俺とは、違う世界の。俺が関わるはずもなかった世界の。
「ワタル。きみは、正義感が強すぎる」
「……ダイゴ、もっと外聞を気にするべきだ」
「全部嘘偽りだ。気にしても、キリがない」
「その嘘偽りを使って、きみを貶めようとするヤツはごまんといる。嘘が本当になってしまうことも」
「それはない」
もし、もしの話だ。
「あのまま、部屋に連れていかれたらとか、考えなかったのか」
「……」
「組み敷かれていたかもしれないんだよ」
「…………」
頑なに口を閉じるダイゴに容赦なく続ける。
「……週刊紙にきみがなんて書かれているか、知っているのか。今日の態度も、どこでリークされるか分からないだろう」
「知っているよ」
沈黙。ダイゴは俺を笑って見た。その顔があまりにも余裕で仕方なさそうで。俺の口は動かなくなった。舌が乾く。喉も。
「おおかた、売春婦とか」
「……ダイゴ」
「媚びへつらう淫乱とか、かな」
「ダイゴ」
肩を乱暴に掴んでしまった。でもダイゴはびくとも動かない。顔を上げて余裕を浮かべて。
「……言っただろう。本心じゃないんだ。嘘偽りだから、心配しないで」
優しい男の瞳に映る俺の顔は酷かった。昔からキツく、誤解されやすかった脅しているように鋭いこの視線はダイゴにとっては効果が無い。
彼は、そっと、俺の手を肩からはがした。そして壊れ物に触るかのように、ぎゅ、と握り返す。張った筋を解すように、
「自覚していない。きみは。どれだけ……自分の正義が……強くて、危険か」
手のひらを優しく撫でてくる。愛おしそうに、労わるように。
「この手は、他に使って」
これはボクの問題だ。きみには関係ない。
言い換えれば、そういうことだ。端的に言えば、干渉するな、という忠告。
「秘密を抱えるな、と言った相手に今度は入ってくるな、と言うんだな。きみは」
「キミがさらけ出すことと、ボクに干渉することは話が別だよ」
「……矛盾してないか」
「今回は、……タイミングが」
タイミング、だと。そんなこと関係ない。ふざけるな、と大きな声を出したくなった。でも理性が止めた。
グ、と、顔を近づけるとダイゴがさ、と逸らした。ビリリと、ラインがまた破けてしまう。ダメだ、これ以上は。お互いのためにも。でも俺の中にある心が抑えきれない。
ダイゴがとうとう不味い事態に気づいたのか、ようやく張り付けていた表情をボロボロと崩していった。
「い、やだ」
はじめて、ハッキリとした拒否。
「キスしないで」
黙っている俺に彼は頑固だった。顔と顔の距離は、あと少しで鼻先が触れる。頼むから、いいよ、って言って欲しい。あまりにも酷い。でも、
「キスをされたら、困る」
ダイゴは、やはり、拒否をする。
「どうして」
「今は、嫌だ」
「なぜ」
何かを言いかけて彼はやめた。
そしてひときわ悲しそうな顔をした。くしゃくしゃにして、いまにも、わっと泣き散らしたらどこかへと消えてしまいそうな表情だった。らしくない。
らしくない、って。なにがだ。俺は今、何を根拠にそう思った。
本当はね、と、ダイゴの唇が震えた。
「ボクたちの関係に、必要のないことだから」
逸らしていた事実を言わせてしまった言葉。ダイゴは自分の言葉なのに傷ついてる。
優しく言葉を確認した。
「嘘偽りか?」
ゆっくりと。
「……俺にかけた言葉も、昨夜したことも、キスも、すべて」
とどめの禁句だ。
ダイゴの瞳孔が、キュ、としまった。
その言葉を、信じられない、とでも言うような顔だった。
「それ、は」
後ずさりする。その腕を掴んだ。ダイゴが驚いて、でも、それでも俺から逃げようとする。
「そんな、こと、」
ダイゴの唇が、わなわなと震える。
「昨夜は、」
突き放した言葉はたった一言。
しん、と、水を張ったように静かに、ダイゴの言葉は俺の鼓膜を震わした。
「一夜の、あやまち、だから」
それはきみもよく知っているだろう、と、言葉には出さずに弧を描いた。切なげに語るダイゴの顔はひたすらに。
ひたすらに。
「……また、ね」
そのまま俺の手からすり抜けて離れていった背中を、俺はただ見ていた。
手は、もうとっくに離れていた。
