すぅ、と、瞼を開ける。広がった真っ白い光に、徐々に色が染み付いていく。それでも白が目立っていた。
線が描かれて壁にくり抜かれる形。スライド式の扉に、金色の表札。ボクの後ろで忙しなく通り過ぎていった看護婦に医者、ポケモン。
車椅子の引かれる音。点滴のガラガラと揺れる音に弾かれて、ボクは今、病室の扉の前でぼんやりと突っ立っていることに気づいた。目をぱちぱちさせて、表札をもう一度しっかり見る。
この名前。この場所。
あぁ、そうだ。そうだった。
腕に抱えていた小さな花束に、木の実と果物を敷き詰めたバスケットをしっかり持ち直して、ボクは扉を横に流す。
病室も真っ白だった。まっさらな部屋。まっさらな壁。真っ白な椅子に、カーテンも白い。白いベッドには、幼い女の子がつまらなそうに窓の外の風景を眺めていた。窓は開けられていて、風が入り込んでカーテンと女の子の栗色の髪を揺らす。遠くから少年たちの笑い声が聞こえた。中庭で、恐らくポケモンバトルでもしているのだろう。
「身体がひえひえになってしまうよ」
ボクが窓を閉めると、女の子が驚いた顔をして見上げてきた。
「まだ春は先だからね」
「ダイゴさん」
「久しぶり」
「ダイゴさん、そのおかお。どうしたの?」
大きな目がまんまるに開かれる。
目線を合わせるようにボクがしゃがむと、小さな指が、ボクの額に手を伸ばす。
ぺと、と触れたのはいつのまにかついていたガーゼだった。これは、確かりゅうせいの滝でヘマをしてしまった怪我で、女の子が撫でるとちょっとだけピリッと痛みが走った。
「滝から落ちてしまってね」
「いたそう」
「平気だよ。すぐ治る」
ベッドの横の椅子に座り、花束とバスケットはチェストへ。スーツの胸ポケットにしまっていたケースを取り出す。いつもしている指輪を四つ抜いて、ケースにしまった。また胸ポケットに戻す。
バスケットに手を伸ばして、赤く塾したリンゴと、こぶりのナイフを取り出した。
「それで、外を見ていたわけだけど」
椅子に座って、リンゴをくるくる回し皮を剥いていく。
「きみはまだポケモンのことを怖いと思うのかい?」
女の子は少し躊躇って、
「こわい」
はっきりそう言った。ボクはナイフを動かす手を止めて、女の子に向き直る。小さな口は、震えていた。大きな目からは今にも大粒の涙がこぼれおちそうだ。
「だって、ポケモンは、うばっていくから」
ぎゅ、と、爪を立ててシーツを掴んだ。いたいけな手のひらにボクは眉をしかめた。
「せかいはこわいよ。うばわれるばかりだから」
女の子が顔を上げてボクを見る。いや、ボクの後ろにある外の風景をもう一度しっかり見ていた。
窓にぴっちり閉じ込められた世界。ガラスはまるで膜みたいで、女の子の世界と外の世界を隔離しているように見えた。ボクは立ち上がって、窓の景色を見下ろした。
ルネシティの海が見える。朝の光があたって、穏やかなエメラルド色の海面がキラキラと揺れていた。
その脇には、まだ若いトレーナーが二人向かい合っていて、大きい木の下で楽しげに手持ちのポケモンに指示をしている。
ミクリがちょうどルネジムからでてきた。トレーナーの姿を見つけると、微笑ましく笑って近寄る。背筋をしゃんと伸ばした二人のトレーナー。ミクリは、どうやらなにか彼らたちに助言をしているらしい。
ルネシティは平和そのものだった。マグマ団とアクア団の騒動があってから、被害が一番大きかったのは間違いなくこの街なのに。
それなのに、もう遠い昔の傷が、やがて剥がれ落ちて消えてしまったように、窓の外の世界は平穏だった。
「そんなことないよ」
ボクはカーテンを閉めて、女の子に向き直る。光が遮断されて、女の子の不安な顔がもっと不安がってしまうように見えてしまった。
「与えてくれる存在。そばにいてくれる存在。助けてくれる存在。……きみにもきっとできるさ」
椅子に座って、その小さな両手に手を伸ばした。優しく包み込むように触れて、にこりと笑う。
「出会えたとき、かならず何か優しいものが生まれる。それはきみにとってかけがえのないものになる」
チェストに置きっぱなしにしていた、皮の剥いたリンゴの皿を持ち上げた。蜂蜜色にとろけた果実を、ナイフで切り分けていく。
ぷつ、と果肉にナイフが刺されば、
「ダイゴさんには、いるの?」
そう聞かれて、手が止まる。均等に分けているリンゴのひと欠片が芯から剥がれる。コロコロと止まることなく転がり、そして皿から落ちてしまった。
ボクは、ゆっくりと口を開ける。確かに言葉には続きがあったはずなのに、外から聞こえたトレーナーの声に遮られて、言葉は空気に溶けていってしまった。
瞬きをひとつ。
アルコールの匂いがした。消毒液の匂い。いつの間にか椅子に座っていた感覚がひっくり返り、全身を重力がねっとりと覆う気持ち悪さがせりあがってくる。
まぶたを上げた。はずなのに、白いモヤが視界いっぱいに広がっていて、ちゃんと目を開けられていないように思える。
泥臭さもない。背骨にゴツゴツ当たっていた岩肌もない。手を動かすと、シーツのサラサラとした感触が伝わってきた。
病院のベッドだ。間違いない。ボクは、確かに消毒臭いシーツの上に横たわっていた。
助かったのか。いや、それとも。
「……? そこに誰かいるのかい」
ボクが目を覚ました気配に気づいて、横で物音がした。顔を横に倒すと、ぼやけた視界にゆらゆらとなにか揺らめいている。
「ユレイドル……? ユレイドルだね」
ボクの声に反応した彼女は、ワッと触手で腕に抱きついてきた。ワンワンと泣いている気配がする。
「見えなくてもわかるよ。怪我は、ない?」
身体も横に向かせて、反対側の手を伸ばす。なでても宥めても、ユレイドルはちっとも泣き止んでくれない。
「ふふ、ボクは……どうやら大丈夫だ。他のみんなは?」
「こちらでお預かりしてます」
若い女性の声が聞こえて、身体を起こす。女性が回診車を押しながらこっちに歩み寄ってきた。一番上には確かにボクのモンスターボールが六つ乗っかっていた。一つは空いていて、それはユレイドルのもの。
「大きなポケモンばかりでしたので、狭い病室にはちょっと……みんな出たがっていたのですが」
女性が回診車のカゴからカルテを取り出すと、困ったような声でユレイドルの方に話しかけた。
「その子だけは、どうしても一度出したボールに戻ってくれなくて。貴方が目を覚ますまで、ずっとそこにいたんですよ」
「そうだったのか、ユレイドル。……ありがとう」
もう一度優しく撫でると、ユレイドルが触手の一本をボクのお腹あたりに伸ばしてきた。病院着の襟から覗き込むと、包帯がぐるぐるに巻かれている。やっぱり、破裂していたか。
「生きていたのが奇跡です。ただ……」
看護師さんがカルテとボクを交互に見る。
「目が……」
そう言われて瞬きをする。何度目をパチパチさせても視界がぼやけてしまう。
どこか痛みがあるというわけではなく、視界にもやがかかる程度のものだった。多分、ずっと暗いところから急に明るいところに移されたわけだから、光に目をやられているのだろう。よくあることだ。
そう説明すると、看護師さんはかぶりを振った。
「目に傷があるんです。大袈裟では無いのですけれども」
「傷?」
「膜に少しだけ」
「あぁ。なら大丈夫だと思います。すぐ治るので」
ボクがあっけらかんとしてそういうと、もやがかかった視界で、看護師さんがカルテから面を上げた。
「丈夫なお方ですね」
その声は少しだけ呆れているトーンだった。
「ところで、」
「はい」
「ボクをここに連れてきた人は、どこに」
「はい?」
「ボク、テンガン山にいたんです。目を覚ましたら病院にいるだなんて、ありえないでしょうから。……お礼を言いたい」
ボクは確かにテンガン山から滑落し、致命傷を負った。ユレイドルだってこんなに心配そうにボクにしがみついている。
死にかけていたことは、夢じゃない現実。
じゃあ、なぜ、ボクは生きて、病院にいるんだろう。
「誰が、ここに」
ボクを。と続けることもなく、看護師さんは言葉の意味を受け取るとちょっと困ったようにしばらく黙って、
「……いいえ、それが不思議なことに」
看護師さんは顔を横に向けた。何かを見つけたのか、かすかに身じろいで、そしてボクに向き直る。
「誰も、……いないんです」
そう続けて言った。
「でも、ボクは確かに……」
確かに、あのとき。
だけど、証拠も確証もなくて、自信がバラバラと解けてしまう。言葉が続かず、遮ったのは看護師の次の言葉。
「つまり、素敵な夢だったんでしょうね。昏睡状態によくあることなので……」
腑に落ちないボクに、看護師さんが優しく肩に触れて、身体をベッドに寝かせようとしてくる。ユレイドルは相変わらずべったりだ。
「もう少し休まれては。きっと、お疲れなのだと」
夢。そうか。夢だったんだろう。
なんて自分に都合のいい夢だったんだろう。
どこまでが夢で、どこまでが現実がわからなくなってしまう。現実と夢の境界は、生々しければ生々しいほど不明瞭だ。特に最近は、昔のことを思い馳せるばかりだったから。
でも、にしては。
右手だけは、熱を帯びたようにあたたかい。まるで、皮膚がチリチリに焼け焦げてしまったように。
そのくすみに落とされたボクの心もほんのりとあたたかくなる。
病室は明るい。明るくて、眩しいから目を閉じた。
看護師さんがカーテンを閉める音が聞こえる。ゆったりとした音が溶けていって、暗くなって、ボクはまた、現実と夢の境界が分からなくなってしまった。
