燃ゆる彗星①〜⑤ - 14/18

 いのち かがやく もの
 いのち うしなった もの

 ふたつの せかいが まじる ばしょ

 

 

 

 ゴォゴォとおぞましい音。水の冷たい匂い。滝つぼや岩肌にぶつかって水しぶきがボクの身体にも降りかかる。目をゆっくり開けた。ちゃんと開けているのか分からなかった。なぜなら真っ暗だったから。
 それでも確かに滝の音が聞こえる。とても冷たくて、空気が澄んでいて、呼吸を繰り返すと肺が凍って痛みが走る。
 痛いことで、生きている心地がした。身体を起こして、辺りを見るけどやっぱり暗い。する、と手が滑りそうになった。ボクの目の前にはどうやら大きな穴が広がっているらしい。
 目を凝らしても、よく見えないのは変わらないけど、滝の音が穴の深さを教えてくれる。
 座ったまま、穴をのぞき込む。覗けば覗くほど、黒色が濃くなっていく。周りには何も無い。穴に手をかざす。見えない。ボクの手の平の輪郭すらなにもかもが見えない。
 ふと、そうしてずっと見つめていたら、奥から誘う声が聞こえる。
 落ちてみればわかる。
 落ちてみたら正体がわかる。
 疑問も、不安も、好奇心でさえもすべて、全部奥底に答えがあるような気がしてならなかった。声の正体は、穴の奥から吹きすさぶ風だったけど、それでもボクは深淵から目を離せなかった。
 落ちて、みようか。
 底に何かあるのか気になる。大丈夫、きっと戻ってこれるはずだから。ね。
 立ち上がって、深呼吸。まだ、生きている。平気だ。呼吸ができているってことは、まだ。
 さん、に、いち、せーの。と、蹴り出す足に力を入れた、けど。
 グンッ、と後ろから腕を引っ張られる。勢いよく。

「キミは」

 ドス、と背中から落ちた先。手繰り寄せられて、身体を抱きすくめられる。輪郭を確認するような力強さに、ボクは動揺してしまって、ピクリとも動けなかった。
 すごく、熱くて、ドロドロに溶かされる。
 何故か、そんな気がした。

 

 

 パチパチ、という音が聞こえる。爆ぜる音だ。薪が崩れる音。
 それから焦げ臭い匂いが漂って、すぐそばに焚き木があるんだな、って長年の旅の癖から分かった。
 いい匂いだと思う。落ち着く匂いだ。この匂いを嗅ぐといつも思うんだけど、あたたかくて、ぬくくて、ほっとする。
 あたたかいことはいいことだ。冷えた身体に固まってしまった血を滑らかに溶かす。
 血は寒すぎると固まって、そして徐々に動けなくなる身体は、眠りについたまま死んでしまう。
 身体だけじゃない。心だってそうだ。寒すぎると、冷えすぎると、人間は心にダメージを負えば負うほど死に近くなる。
 あたたかいということは、それを溶かしてくれるということ。
 誰かに、ぎゅ、っと抱きしめられたぬくもりというのは、かけがえのないもの。
 だけどね。ボクは、冷たい感触にも魅力があると思うんだ。
 はがねタイプの魅力とか、それこそだよね。彼らを抱きしめるとき、ひんやりゴツゴツした感触は、ボクの柔らかい皮膚では持ちようもない。鋭くて何よりも硬くて、彼らの強くてカッコイイ象徴だと思う。
 それだけじゃない。もともと暖かい気候であるホウエンに生まれ、育ったボクにとって、冷たい何かは物珍しい体験だった。
 例えば、雪に埋もれて、ひや、と頬が冷たくなった感触とかね。
 そういえば、ボク。ちょっと前に雪をたくさん見たことがあった。ホウエンにはない光景。あの、桜の枯れ木に包まれた青い空。橙色が覆いかぶさってくる夕暮れ。澄んだ空気を吸うたびに、肺が凍りついた。
 そう。そうだ。
 フスベシティの山奥で、彼と初めてバトルをした、あの二人だけの逢瀬。
 二人きりの世界。
 最高の気分だったボクは、カッと全身に回る熱にくらくらしてしまって、そのままふやけた身体をどうにかこうにか冷まそうと雪に縋ることにした。
 ぼふん、と音を立てて沈む四肢。雪はとても柔らかく、気持ちよかった。

「冷たいな。ここは」

 ぽつ、と呟いた。冷たい。寒い。でも、気持ちいい。
 人からしたら、おかしいね、って言われそうな話だ。でも。
 隣に同じようにしているきみに気づいた。きみも空を見ていた。
 横顔。凛々しい横顔だ。赤い炎のような前髪がハラ、と少しだけほどけていた。汗もしっとり滲んでいる。それだけバトルが白熱した証拠だ。緩んだ前髪と眉間のせいで、どことなく幼く見えたのがなんだか可愛らしく思ってしまったことは、言わないでおこうかな。ボクだけの、秘密。
 珍しい顔だった。見たことの無い顔だった。ボクにとって、彼もそういう顔、するんだなぁ、と呑気に思った。どんな顔って、あっけに取られて空を見上げている顔だ。少なくとも、それまでの彼には想像のできない顔だった。
 呼吸を繰り返し、ハァハァ、と、空を見上げている顔はまっさらだ。何を考えているか、ちっとも分からなかった。服も彼のお気に入りのマントもすっかりボロボロで、あたりの雪はすっかりドロドロだ。
 ボクたちは、ドロドロだった。
 彼の顔は真っ赤だ。特に鼻と耳はもっと赤かった。興奮し、息を荒らげて前髪をかきあげる姿を見てしまえば、無邪気な子どもに戻ってしまったかのようだった。でも、その手は確かに。分厚く、骨の筋がしっかり見えて、大きくて、大人の、手だ。
 その手の正体は。きみのすべてを、語っていて。
 口を開こうとしたとき、バチッ、と黒くて爛々とした目とボクの目が合って。それで。

「ふっ……」
「ふふ、……ふっ」

 二人一緒に、くすくすと、何が面白かったのかよく分からなかったけれども。
 ずっと、ずっと。
 幸せだなぁ、って思いながら、目を細めて笑いあっていたなあ。

 遠ざかっていく笑い声が、なんだか酷く懐かしい。
 瞼の裏で反芻する二人分の笑い声がどんどん消えてしまう。もう、幻のような思い出。
 ゆっくりと、瞼をあげた。
 当然、隣にはきみなんていない。それどころか真っ暗で、ひとりぼっちだった。ぼやけた視界に、瓦礫の山が見えて、泥臭い匂いが広がった。血の匂いがドロ、と鼻腔を刺激して、うめき声をあげた。低い声がまるで化け物の声のように反響したけど、確かにボクの声だ。
 動けない。身体すべてが鉛になってしまったように重い。
 少しでも動くと全身針に刺されたような痛みが走って、あ、ボク、落ちたんだ、ってことをそこで思い出した。
 呼吸を浅く繰り返すと凍てつく空気が肺に潜り込んで、ツキン、と痛みが走った。それなのにお腹あたりが暖かくて、痙攣する手でなんとか探ると、ぬる、とした感触があった。血なまぐさい匂いがする。多分、破けたな……唇はガサガサだ……。
 ここはどこだろう。どれだけ落ちたんだろう。モンスターボールを、はやく。はやく出さないと……。
 どれかのモンスターボールが揺れた。ユレイドルかな。泣かないでくれ、ユレイドル。大丈夫。ボクは、大丈夫だから……。
 もし、くたびれるなら一人がいい。みんなを巻き込むなんて、トレーナーとして失格だ。
 でも、もう手が動かない。頭も、ぼやけてくる。
 ボクは死ぬのだろうか。
 もしかして、もう死んでしまったのだろうか。
 考えれば考えるほど頭が痛くなる。なら考えない方がいい。ズキンズキンと身体の重みで圧迫された内臓が本当に痛くて、たまらない。
 せめて、身体を仰向けに。しないと。
 グ、ッと腕に力を入れる。ダメだ。ビクともしないな。足も、やっぱり動かない。ダメか……。
 脳みそと心と、身体の隅々が剥離してバラバラにされたみたいだ。
 せめて、せめて……せめて。お願いだ。
 腕一本だけ動けば十分だ。みんなのモンスターボールを開けることだけはさせてくれ。みんなを逃がすことだけは、しないと。ボクの命よりも大切な仲間なんだ。大切な、かけがえのない愛おしいみんな。みんなだけでも、どうか生きてくれなければボクは地獄にだって行かない。
 動け。動いてくれ。ボクの腕。

「うご、け……」

 ふ、と、腕がぶらんと浮かぶ。
 それだけじゃない。身体が羽根のように軽くなって、ひっくり返される。ドサ、と背中が地面に当たって、ぼやけた視界が少しだけ開放された。顔にこびり付いていた泥や細かい石がパラパラと落ちていって、そこでボクが今、仰向けになっていることに気づいた。どうして。
 するする、布ズレの音がすぐ下から聞こえる。ベストのボタンを外され、首に巻いていたマフラーを抜かれる。シャツのボタンを二つ外されると自然と呼吸が楽になった。
 お腹にもぞ、と何かまさぐる固い感触がした。小さなポケモンがのしのし乗ってきたときに似ている感触。ボクの呼吸を確かめるような触り方に、あれ、って思った。
 だれか、いるの。
 聞く前に真っ暗な視界に声が浮かんで。
 ぽん、と色づく光のように浮かんで。
 ぎゅ、と、ボクの右手を誰かが握りしめてくる、かたい感触。

「……──ダイゴ」

 うそ。

 うそだろ。そんなことない。だって、ありえないだろう。
 その声に、言葉に。
 その手に、皮膚に。
 身体が震える。心も、喉から絞り出した声もかすれてしまう。痙攣が止まらない。心臓がドクドクする。熱い。血が一気に頭にのぼった。
 もう一度声を出そうとすれば、胃がぎゅ、っと絞られた痛みが走った。目頭が熱い。
 だって、だって、その声は。

「きみ、は」

 その声を知っていた。

「……答えて。もし、きみなら」

 その手のひらを知っていた。

「もういちど」

 じわ、と滲む目が熱い。それなのに真っ暗で相も変わらず何も見えなくて不安になった。ボクの都合のいい幻だって思いたくなくて、必死にその声の正体をかき集める。
 浮かんだ姿の輪郭。あの真っ直ぐな瞳の色。思い出させて。見させて。

「ボクの……名前を……、呼んで」

 知っていた。
 知っていたよ。
 誰よりも。この世界の誰よりも、その輪郭を知っていた自信があるんだ。
 だから。

「……ワタル」

 か細い声が届いたかは分からない。返事はなかった。でも。
 ぎゅ、っと握ってくれた手を、その人はずっと、ボクが眠りにつくまで離さないでいてくれたことは確かだった。
 あたたかい。