第四話 くすぶる皮膚
ホウエン地方を離れる前、ちょっとだけ困ってしまったことがある。
子どもたちの純粋でひたむきな心には、ボクから失われてしまった考えがある、と気づかされた。それはあの子がホウエンリーグチャンピオンにだってなれるかな、と思ってから続いた出会いと手助けから、薄々気づかされていたことだったけど、まさかホウエンからいざ、離れようと決意したあとになっても思い知らされるなんて思わなかったな。
「どうして、行ってしまうんです。こんな別れ方をしたまま」
むっすりとした顔で目の前のその子はそう言った。ボクが奢ったジュースに手をつけることもなく、カラン、と氷が溶けて揺れる。
「どうしてもなにも」
「ダイゴさんって、たまに酷いことしますよね」
「ひ、酷いこと……」
春の匂いが芽吹く海は、あたたかい潮の気配に包まれている。そろそろ桜も満開になり、コンテストは新しい開催期間が始まる。
また新たな一年の兆しというタイミングで、ボクはカイナシティから出航する船に乗る予定だ。時刻は十三時。その前に思い出深いカフェでコーヒーでも飲もうかな、と思ったときに、カバンを掴まれた。ひったくりか、と警戒を持って振り返れば、目つきを鋭くした男の子がボクを睨みあげていた。
まるでひったくったのはボクの方だと言わんばかりに。
見つかったか、捕まったか、とボクは苦笑いすれば、後から走って追いかけてきた女の子もボクの姿に目をまん丸くし、市場で買い物していたのか、大きな紙袋を落として震えていた。
紙袋から落ちてしまった可愛らしいアクセサリー。汚れてしまったな、とどこか他人事のように眺めていたボクに、彼女は顔をクシャッとさせて胸に飛びついてきた。わんわんと泣いて。
困ったなぁ、と頭をかいたボクは、二人を連れてジュースをおごってあげることにした。
しゃくりあげる女の子に、相変わらずジト目を流す男の子。二人に挟まれながら、今までのことをゆったりと話す。その態度が、男の子は気に食わないらしい。
「いつか痛い目にあいますよ」
「ダイゴさんは優しいから……」
「それでも決めたことなんだ。ボクは、ホウエンを離れる」
二人は寂しい顔をした。男の子は歯を食いしばって、女の子はまた泣きそうな顔になって。
「寂しくないんだよ、これはね。寂しくないことなんだ」
そう強く言っても、腑に落ちないらしい。相変わらず、男の子は不満げに顔を顰めて、女の子は瞳をうるませて悲しそうにして。
「……分からないかな?」
「分かりません」
「分からないです」
声を揃えて言われてしまって、ボクはくすくす笑った。笑ったら、二人一緒になって怒られてしまう。
「それって逃げるようなもんじゃないですか」
逃げる、か。確かにそうなのかもしれないね。人によってはそう見える。
「ダイゴさんには、心残りというものがないんですか」
「心残り、……ね」
どうだろう。昔からじっとすることが苦手な子どもだったから。それは大人になってからでも変わらなかった。
珍しい石のためならどこにだって行くし、壁画の噂を友人から聞きつけたときは、話を最後まで聞かず、走り去ってしまったこともあった。そんなボクの姿を見て、周りは「きみは子どものように無邪気だね」と言ってくることもある。
でも、それは裏を返せば残酷な評価なのではないだろうか。後ろを見ず前へ突き進む道を信じ続けることは、実はとっても難しい。大人になってからよく分かった。
変わらない足取りの軽さ。でも、やっぱり昔に比べれば、足が重くなってしまっている気がするのは、ボクだけなのか。
だけど、子どもの頃のように、この目で、この手で、この足で、直接世界を歩き直したいともう一度思えたのは、そう思わせてくれる人たちにたくさんたくさん出会ってきたから。
そのうちの一人を、置いてきてしまったけど。
こころのこり。
「ないと言ったら、嘘になってしまうかもね」
たったその一言では片付けられない。いつも心の奥底で、チリチリと焦げる光はある。
その正体の名前を、ボクは。
なぜだか分からないけど、呼ぶことに、躊躇ってしまう。
出会った日から、まだ一ヶ月も経っていないのに。彼と過ごした時間というのも、ほんの少しだったはずなのに。
彼の気持ちを聞くたびに、ボクの話をするたびに、なにか新しいものが生まれて、初めての体験が多くて、時間は少ないのに濃密だった。
彼のこと。彼の故郷。彼の道。すべてがすべて、愛おしいと思ったのは、彼の生きるすべてが美しいと思えたから。
トクサネの今日の朝。いつもの朝なのに、いつもとはちがう朝。
それは、ぴっちり閉められたカーテンから既に変わってしまっていた。変わっていた事実に一番驚いたのは他でもないボク自身だ。いつもより暗い部屋に、心がぽっかりと空いてしまう。
急いでベッドから抜け出して、空っぽの荷物に色んなものを詰めようと決めた。きみの貴重な、最初で最後の寝息を横に。
初めてセックスをしたときは、ボクは気を失ってしまったから、彼があのあと寝たかどうかは知らなかった。
だから、二回目、目を覚ましたとき、ボクの視界いっぱいに彼の寝顔が広がっていて、心がじわぁと滲んでいく。
ボクを信頼し、ボクにゆだね、警戒心のひときわ強い男が緩んだ姿というものは、何物にも代えられない。
まずかったんだ。それがね。
「ボクにはボクなりの、ラインがあるからね」
シーツからはみ出ている、きみの右手に釘付けになる。暗い部屋では、よく見えないけれど、昨夜ボクをあんなにも愛でて、甘やかして、壊れ物に扱うかのように触れたと思えば、壊さんばかりに揺さぶったこの手のひら。
どうしよう。触りたい。触りたいけど、触ったら。
どうする。触れたら、なにかまた芽生えてしまう気がした。傍らにあるまだ何も詰めていないカバンを選ぶか、迷う。でも。
手を、伸ばしてしまう。
決して目を覚まさないように、こっそりと両手で触れる。手の甲を撫でて、手のひらを指の腹で押して。
指の輪郭、爪の形、血管の厚み。指でやわやわと撫でて、ぬくもりを感じていく。
分厚くて、骨が丈夫で。
どれくらい自分を厳しくすれば、そして他人に優しくし他人を傷つけた正義を貫けば、こんなにたくさんの生傷ができるだろう。
ささくれ、皮膚の削れ、切り傷に、噛み跡。
ぎゅ、と優しく握れば、熱い血がドクンドクン、と脈打っていた。
今だけ。いまだけ、許してくれ。
この手を離したら、もう触れないし、すぐに忘れるから。ボクはきみのことを必要としないし、きみもボクのことを必要にしてはいけない。
ボクたちにはそれぞれがある。それはきみもよく知っているだろう。ボクたちはね、お互いを選んではいけないんだ。
だってボクは、きみに選んできた道を手放して欲しくはない。歩んできた光の輝きに、たまらなく目を焦がされた。その邪魔をしたくないから。
愛おしいと、思う。
この世界は。出会いと別れを繰り返し、いっとう輝く太陽に照らされた青空の下に広がる美しい命たち。
きみの高み。迷わず突き進んで欲しい。その背中を求める人は、この世界中にたくさんいる。それを一瞬だけでも奪ったのは、罪深いだろうし、悪党だろう。
きみの許せないことだろう。
「だって、ダイゴさん」
──なんだか。もう、帰ってこないようにみえるものだから、
そんなことはない。それは、ありえないよ。ボクは、ホウエンを愛しているのだから。
だから。
辛くなんかないさ。悲しくもないだろう。
ねぇ。きみなら、……ね。
そんなことないって、きみだったら言ってくれるよね。ボクと同じ気持ちを、きみは分かってくれるはずだ。
きみと対峙した境界。カイナシティのカフェで眺める美しい海と、太陽と、潮の香り。
じ、っとみつめて、海から伸ばされるまばゆい光に目を細めた。子どもたちがひそひそとボクのことを話している様子を遠くに感じながら、小さな声で呟く。
さらさらと波が揺れる潮の香り。まぶたを下ろし、肺いっぱいに吸って。
故郷と別れるまであと少し。それまでに、届かない声を、残したものすべてに届くように願いを込めながら。
「寂しくなんかないよ。……ね。だって──」
ボクたちは、またどこかで会えるから。
