不覚暁に星は輝く✱r18 - 11/34

 五、もつれた水

 

 腕の力だけを使って、小さな洞窟から身体を地面に下ろした。寒い空気が皮膚を刺して、ひんやりと痛い。すっかり、波は引いていて氷が張った土には潮が固まった匂いが満ちていた。
 辺りを見渡すと、ちょうど一歩分先の壁には波に嬲られてようやく落ち着いたのか、傷だらけでボロボロになったカンテラが落ちている。

「あったよ」

 拾い上げて、声を上へ。
 返事はない。聞こえていないというよりはしたくないのかもしれない。
 カンテラを上にほおり投げて、もう一度腕だけで上半身を持ち上げた。よじ登った先に相変わらず身体を横に倒してビクともしない男。

「ボロボロだ」

 不満げな声が、ひとつ。

「……カンテラが?」
「ボクの身体と……」

 そう言ってやっとダイゴはこっちを向いた。昨夜ひとしきり泣き腫らした目の下は赤い痕が染み付いている。

「プライド」

 他でもない、そうさせた俺の頬をつねって、仕返し、とでもいうように笑った。いたずらっ子のように、ひたすらに無邪気に。
 ダイゴはのっそりと起き上がった。毛布代わりにしては心もとないスーツのジャケットがずり落ちればひどい格好だった。シャツのすべてのボタンは外れていて、むき出しの白い肌は青くなっている。

「服をしっかり着て、寒いだろ」

 唇の皮膚までガサガサだ。声も。

「もっと、あっためて欲しいな」

 ちら、と流し目でキスを強請ってくる。

「もう、潮は引いている。冗談が言う余裕があるなら、お腹になにか詰め込んで。水を飲んでくれ」

 ほったらかしの缶詰めと水を促すとダイゴは首を振る。

「食べる気ないよ。満足しているから」

 ふふ、と笑いながらボタンをはめる。シワだらけのベストは着る気が無いのかジャケットだけを羽織った。

「ワタル」

 手を振ってこっちにおいで、と示した。大人しく従うと、

「きみのここにね、」

 トントン、とダイゴは俺の胸を指で二回叩いた。ちょうど心臓のあたり。

「ずっと、潜んでいる感情の正体を、ボクは知っているよ」
「……」
「知っているよ。ボクも持っているんだ、同じものを」

 ぴく、と目が震える。心も、脳みそも。ダイゴは相変わらず優しげに笑った。自分が大切にしている思い出を、引き出しから丁寧に取り出すように。

「きみは負けたとき、なにを思った?」

 その言葉にようやく今までに抱えていたつっかかりがほどける。なぜ、彼が俺の名前を知っていたこともそういうことだった。

「……知っていたのか、俺が、セキエイリーグにいたことを」

 ダイゴは頷いた。

「きみが負けた、って……昨日言ったことは、つまり……」

 防衛戦のことだった。ダイゴはもう一度頷いた。

「……とっくにね。チャンピオンという肩書きは、もうボクにはない」
「なら、新聞に写っていたのは、」
「読んだんだ。隣にいたでしょ? 綺麗な男の人。その人が、ミクリ。ボクが引退したのは……もう三週間も前のこと」

 ひとつひとつ、順に思い出すようにダイゴは言葉を選んだ。

「ちょうどその頃だったかな。キミの知らせがホウエンリーグ委員会にも入ってきてね」

 暗い天井を仰いでおかしい事実にくすくすと笑った。

「出会う前から、ボクはもうきみに出会っていた」

 知っているかい、ワタル。返事を待たずに話し続ける。

「ボクたちは、肩書きそれ以前に、一人のポケモントレーナーなんだ」
「……そうだね」
「ボクは勝負が好きだ。……大好きだ。目と目が合えば、言葉なんていらない。あとは、勝負とポケモンたちを通して、理解ができる。その人のすべてが、一瞬で、流れてくる。それはすごい輝きだ。眩しくて、目が潰れそうになるよ。いつも、いつも」

 ぐ、と、外れてしまった指輪を二つ、握ってほどいた。手のひらには、くっきり赤い輪の跡が二つ重なって出来ていた。

「これぐらい、悔しい。血が滲むほど負けるのってさ。でも」

 ダイゴは指輪を嵌めて俺に向き直る。

「齟齬なんて、勝負には存在しない」

 そして、

「……高みはあって、終わりなんてないんだ」

 ダイゴは俺の頬に指を滑らした。

「はじめて目を合わせたとき、」

 頬から目尻を撫であげる。体温は、冷たい。

「きみは、どこか寂しそうな顔をしていた」

 皮膚を滑る指は、今度はうなじに触れた。すっかりほどけた髪の生え際を撫でてくる。優しい手つきで。いたわるように。

「でも、昨日、キスをしたとき」

 肩に両手を置いてまっすぐ見つめる。見つめ合う。

「もうきみの目に迷いはなかった」

 もう一度、ダイゴは俺の胸に今度は手の平でトントン、と叩いた。そして、ぐ、と押す。手のひらに流れる脈で、俺の鼓動を確認するように。

「きみはね、気づいてないようだけれど、もうそのときにはすでに気持ちの整理がついていたんだよ」

 ダイゴの脈の音が俺の鼓動に流れるような錯覚が湧いた。それほどダイゴの感情は俺と重なった、ということ。

「負けたとき、悔しかっただろうね。すごく、それはもう、本当にすごく、すごく」
「あぁ」
「でも、それだけではなくて、納得と、あと、他にもあったはず」
「そう、……そうだな」
「きみはそれに、ようやく気づいたんだね」

 自分のことのように嬉しそうに声を輝かせて、ダイゴは俺の頬に触れた。

「はじめてのことだったんだろう。……大切にしないと」

 こつん、とおでこをおでこにぶつける。まだ彼も、俺も、髪が少ししんなりしていた。

「貴重だからね」

 同じ高み。違う立場だからこそ、理解し、言える言葉にはとてつもない輝きがあった。
 それは、ダイゴだったからこそ言えた話だって気づいて、俺はようやく腑に落ちた。

「きみの高み、……そして、俺の高み、か」

 これから、自分が持つべき心と姿勢がようやく分かった気がした。風に揺られ、さまよい散るばかりだった考えは、ようやく積もって形を生した。

「……俺はあの瞬間がたまらなく好きだったんだな」
「わかるよ、ボクも」
「死ぬまで、終わって欲しくない瞬間だ」
「うん」
「でも、……決してそれが終わりではない」

 そうだろ、と、ダイゴの方を向いた。でも、

「……そうなんだよね」

 俺のその言葉を聞いたきみはなぜか少し、悲しそうにしていた。