燃ゆる彗星①〜⑤ - 11/18

 若い夫婦になろうとしているあの二人に、晩酌に誘われたボクはどうにもお酒を飲む気にもなれず、丁重にお断りした。
 聞けば男の人はボクと同じ年齢だったらしい。ボクの年齢をバラしたとき、夫婦のお互いの顔を見合わせてぱちぱちさせた大きな目が、なんとなく腑に落ちない。
 確かに人に比べて童顔かもしれないけど、まさかここでも思い知らされるとは思わなかった。
 そう。ボクはもうそんな歳。
 それなのに実を言うと、あまりお酒が得意じゃなかったりするんだ。
 ミクリに付き合ってもらうときは、いつのまにか意識がグラグラしているし、カゲツを家に呼び出したときは、彼好みの、鼻に突き刺さりそうなぐらいキツいお酒でベッドに沈んでしまったこともあった。
 これは、限られた人しか知らないボクの秘密。
 それは気の許した相手だから多分、酔いやすくなってるのかもしれないよ、と、飲み会で見解を述べたのがミクリだった。カゲツは苦い顔をし、周りのみんなはうんうんと頷いた。そういうものなのかな。
 子どもではない、かといって大人にもなりきれない頃だったら、若さの失敗だね、って笑えたかもしれない。
 だけど、そうもいかないシチュエーションというものが、ボクの後ろから忍び寄ってきて、そしていつの間にかボクはその中に入り込んでいた。
 思い出したこと。思い馳せた、顔。
 あのときも、まさにそうだった。

 気の許せない、ピリピリとした空気。警戒は怠らず、相手の言うこと話すことに神経質になって探ること。
 それは、誰から教わるわけでもなく、自然と身についた社交術だった。特に、企業間で行われるものは、自分の背負っている責任が関わっているわけで、ヘラヘラする訳にはいかない。
 ホウエンを担うもの。
 デボンコーポレーションを担うもの。
 代表する役目は、いわばその顔なのだから。ボクが粗相なことをすれば、抱えている責任に泥を塗る行為。
 幼い頃は、父の隣で高く聳えて表情の見えない大人たちを見上げるばかり。話している言葉は歪んで見えて、まるでボクの知らない言葉を、父は話しているように見えた。そんな難しい言葉を理解し、会話を交わす父を心の底からすごいなと見上げていた。
 それから年を経て、背も高くなり、大人の手前になったとき。冒険することから足を離れたボクは、改めて会場に踏み入れた。世界が変わった。
 言葉を交わす人の数も多くなっていって、お酒を飲む量も種類も増えていった。
 知らない言葉だと思っていた言葉も、理解するようになってしまう。
 それからだ。ボクにとってお酒を飲む目的は、決して趣向だけじゃなくて、手段だと知ったのは。
 交渉の円滑のために。
 そして。
 誰もが抱えている秘めごと、隠しごと、弱み、後ろめたいこと。
 誰かに教えてもらったわけではなかったけど、嫌でも自分がその対象となれば、使い方は実践で学んだ。
 お酒は、そういう使い方もできるんだって。
 さらけだすのには、もってこい。

 

 

 チャンピオンをやめたあと。おやじの会社主催で毎年恒例に行われる、ホウエンで一番でかい祝賀会に参加することは、ボクの仕事の一環であり、義務でもあった。
 色んな人が、色んな話をしている空間。
 ぽつんと、いつもボクだけが世界に置いてけぼりにされたかのように、雑音も、雑談も、人々の囁き声も、グラスをかち合わせる音も、遠ざかっていて、とてもとても静かだった。
 膜が見えるようだ。
 いつからだったろう。ボクの触れる世界というものには、いつだって膜が張り付いていた。
 歩くたびに、人々の周りに膜が張り付いているように見える。分からない。
 もしかしたら膜をまとっているのは、ボク自身なのかも。

「あの人。例の……」

 誰かが、横を通り過ぎた時にその膜をつついた。波紋が広がって、声が鼓膜を揺さぶる。ボクの耳に次々と。

「チャンピオンをやめたって、いつのこと……」
「酷い話。もう……二十五に……、確か……」
「身を固めてもよかろうに」

 人の話に尾ひれもつくのも、その尾ひれが腐りきってしまうのも、誤解を招くのも、解くのに容易くないことも、知っていた。
 学んだのではなくて、これはいつの間にか知っていた事実だった。
 避けられないことだと。
 ふぅ、と息をついた。なにするんだっけ。

「ダイゴくん、……ダイゴくん」

 ぼーとしてしまって、自分の名前を呼ばれていることに気がつかなかった。振り返ると、自分の記憶よりちょっと皺の増えたご老人が和やかに手を振っていた。
 隣には緊張で肩がピーン、と張っているまだ初々しい女性がカチカチになっていた。ご老人がその女性の肩を優しくポン、と叩くと、ぎこちなく口が動き始めた。父の知り合いの、お孫さんか。

「は、はじめまして。ツワブキさん。わたし、」

 昔のボクみたいだなぁ、と呑気なことを考えた。ボクも、父に色んなところに連れ回されて、紹介を受けたときは、どのように自分のことを話せばいいか分からなかった。父は、言葉で教えるというより、実践で身に叩き込むような人だったから。
 歯がつっかえて、舌が回らない女性は、顔を真っ赤にさせて新品のパーティドレスをくしゃくしゃに掴んでいた。いけないよ、そうすると、シワができてしまうんだ。

「はじめまして」

 今度はボクが教える側に立ったんだから。ほぐすようにエスコートを。女性は俯いていた顔をあげる。

「緊張しないで」

 ボクがそういうと、女性はますます顔を真っ赤にさせた。

「大丈夫。きっとじきに」

 きみも、この世界に慣れていくよ、とまで声は出せず、ただただ、ボクはゆったりと笑った。
 しわくちゃになったスーツは、たぶん、おやじの部屋のどこかにしまってある。嫌な思い出、っていうわけではないけど、見るとどこか胸がムズムズしてしまう。
 それなのに、捨てられないのはなぜだろう。
 使われていないクローゼットで、それはとっくにホコリを被っているだろうに。

 

「悪かったな、ダイゴ」

 え、って思った。

「……急に、どうしたの」

 あらかた挨拶の終えたボクがその場を離れようとすると、おやじがたった一言そう呟いた。背中越しに聞いた声は小さくて、下手したら聞き間違えたのかもしれない。
 けど、おやじの表情を確認すると、あぁ、やっぱり。聞き間違えてはなかった。

「昨日は楽しかったらしいな」
「それ、遅刻してきたことへの嫌味か」

 おやじはいたずらっ子のように、によ、と笑った。

「言わないと分からないか? 嬉しかったのだよ。お前が、子どものように無邪気さを取り戻すこととか。そして、……大人になってくれたこと……とかな」

 喉がキュ、となって、ボクが何も言えずにいると、おやじは、少し切なそうに笑った。

「お前は、誇りだよ」

 じわ、と胸の中で滲んだ。ボクは口を噤んだまま、足早に立ち去った。こういう態度はきっと、変なところ目敏いおやじにはバレてしまうからペケだ。
 せめて、耳が真っ赤になっていないといい。
 離れたところで振り返る。おやじは、すっかりボクには目もくれず、周りに輪を作って話に熱中していた。仕事の顔つきで。
 たまにおやじが分からなくなるな。
 疲れたな。……なぜか、いつもより。
 キョロキョロと周りを見る。人々の合間を縫って、バルコニー側へ歩いていくと、見慣れた背の高い男が、誰かと楽しそうに話していた。

「ミクリ」

 肩の力が抜けて、ほ、っとした。
 いつのまに来ていたのだろう。声をかけないと。話したいこと、たくさんあるんだ。
 その隣にドキッとした。まさかミクリの隣にいるとは思わなくて。
 膜の外側で。ボクを見つめていた視線が、この広い会場でたったひとつ。
 パチ、と目が合ってしまったような気がして、射抜かれる。心臓がまた、ドキッとした。
 あの目。好きなんだよな。
 鋭くて。いかつくて。人から見たらちょっと怖めの。
 黒曜石みたいだ。切っ先を下手に扱うと、スパッ、と手が簡単に引き裂かれてしまうような、あの深淵。
 でも、その奥はひたすらに優しくて、真っ直ぐで。それでいて、和らげだってことを、昨夜理解した。
 あの目が大好きで。そのもっと奥に閉まっている何かが知りたくて。それでボクは。

「……さらけ、だしたいな」

 と、心の底から思ったから。
 どうすればいいんだろう。彼の中身をぶちまけるには。
 知りたい。
 触ってみたい。
 あの目の正体を。底なしの優しさで覆い隠された、光に塗りつぶされた影を。
 ボクの手によって。他の誰でもないボクの、光の元にさらけだしたら。
 そしたら。

「……そしたら?」

 なにか生まれるのだろうか。ボクの中に。そしてきみの中に。

──きみの、かすかな本心が

 するりと口から滑りでた、昨日のボクの言葉は意識してなかったものだった。でも、確かにそう思った理由があと少しでわかるような気がした。
 トクン、と、心臓の鼓動が聞こえる。波紋が揺らめくように、トクン、トクン、と細かくなって。
 そういえば、ボク。彼とキスをした仲なんだよな。
 キスしたときの顔、見ものだったな。ボクの唇に噛み付いて。嬉しくなった逸る気持ちは膨らんで、ボクは勢いあまって彼を押し倒した。
 見下ろした彼の顔。険しくなっていく彼の顔。カンテラの光で、青ざめていた顔がチリチリ焦げていった。
 そのあとは。ちょっとやりすぎたかな、って思ったけども。たまらなく、そう。気持ちよかったってのは本当。
 もう一度、何度でも見たい、って気持ちがムクムクめばえてしまえば止められなかった。
 その顔を思い出せば、ぷっつりと何かが破れる音が聞こえる。膜の外側にボクは足をぶつけてしまった。
 すべてが溶けきって、どうでもよくなった。