リッシ湖のほとりをナギサシティ方面に歩くと、途中には白く塗装された綺麗な道に、上品な建物がてんてんと置かれているのが見えてくる。鮮やかな青い屋根が特徴的な街は、シンオウ地方では結構有名な宿泊施設で、特に一番高い位置にあるレストランは、美味しい料理が提供されるとのことでとても人気だ。
昔、家族で一緒に来たことがあることを思い出して、夕食をそこで食べようと、前々から予約していた。
あれからもう何年も経ったはずなのに、変わらない内装。ちょっとだけ皺が増えた顔なじみのボーイが、ボクの姿に気づくと快く声をかけてくれた。
開放感のある高い天井。ロッジのような木造建築。壁際にある暖炉の中で燃えている薪のパチパチと爆ぜる音がここちいい。暖炉の前には大きなピアノが置かれてあった。
コートを脱いで、彼とたわいない話をしながらエスコートされた席は昔と同じ窓際の席だった。
「今日はおひとりで」
「残念ながら」
ボクが笑って言うと、ボーイもくすぐったく笑った。もう子どもの頃のボクはいなくなってしまうほどの月日が経ってしまったこと、ただそれだけの話。
グラスに水が注がれ、メニューだけがそ、と置かれる。
他のテーブルもほとんど埋まっている。がら空きのテーブルもあるにはあるけど、そのテーブルの上には必ず【Reserved】の札が置かれていた。白いテーブルクロスが敷かれた前で、ドレスコードを身にまとった人々が、楽しげに話す。小さな子どもが、かしこまった料理を前に身体をカチコチに固まらせて、ナイフとフォークの使い方を親から教わっている。
ボクも昔はそうだったな、と懐かしい思いに浸りながら、窓の外の風景を楽しんだ。
カーテンがきっちり括られたガラス窓越しに、リッシ湖が見える。夕暮れの光に照らされてオレンジ色に揺らめいていた。
「おやじも、まだ覚えているかな」
しばらくそうして、揺らめく水面をじ、と見つめていた。
ナプキンを手に取る。向かいに座る相手はいないけれど、
──フォークを左手に、ナイフを右手に
「ナプキンは、折って膝の上」
──外側から手に取って、
「パンは一口サイズに分け、口直し用」
反芻する言葉を、繰り返していく。学んだのは、もう恐ろしいほど昔のことで、テーブルマナーなんて耳にタコができるほど、先生から丁寧に何度も何度も教わったはずなのに、シンオウ地方でたった一回、初めて父親の口から教わったときの方が鮮明に覚えていた。
「大事なことは、」
──ともに食べる喜びを、味わうこと
確か、あのとき印象的だったこと。
メインの料理を食べながら、おいしいおいしいと、家族で盛り上がってるとき、綺麗な女性がスポットライトを引き連れながらピアノの前に現れる。ボクにテーブルマナーを教えていた父親がふと見蕩れてしまったその横顔。
浮気してる、とからかったら、違うに決まってるだろ、と真剣な顔で否定された。多分、見蕩れていたのは女性の顔ではなかったんだろう。
おやじは、あのとき、何に見蕩れていたんだろうか。
ステージはそのままにある。ちょうどここからだと直線上にあって、ピアノにホコリが被っていないのを見ると、メンテナンスを定期的に行っているんだろう。
すると。
背の高い一人の女性が赤いドレスの裾をたくしあげて、ステージの上に現れる。彼女がステージの真ん中に置かれているマイクに手を触れると、レストランにいる客が、少しずつ話す口を閉じていった。
輪を広げて静まっていく。照明も暗く落とされていって、ステージだけがぽっかりと明るくなっていた。伴奏が暗闇のどこかから聞こえる。ギターと、ピアノの旋律。
チカッと、女性の耳元で何かが光って、なんだろう、って思ったとき、彼女の小さな口がゆっくりと開かれていった。
「この歌」
聞き覚えのある歌。
古い歌だった。ボクが小さい頃、父がよく聞いていたことを思い出す。いや、メロディだけはどこかで聞いたばかりだったような気がする。
あぁ、そうだ。歌詞は違うけど、確か。
”長い道のりをゆく 月に照らされて
遥か彼方へ響き飛ぶ歌と一緒に
昔の思い出を抱えた 七弦で奏でた歌と一緒に
夜な夜なわたしを苦しめた歌と一緒に”
ミオシティの人たちが、大きな橋の前で歌っていたのと同じメロディだった。
同じなのはメロディだけで、歌詞は全然違うし、抑揚とか、細かいところまでは一緒ではなかった。
ミオシティの男たちが顔を真っ赤にさせて、お互いの肩を支え合い、よろけながらも気持ちよさそうに歌う姿は、とても印象的。彼らが歌ったときは、足腰に響くような力強さと豪快さがあったけど、同じメロディでも、女性が歌うその歌は、滑らかで落ち着いた印象があった。
テーブルのスープ皿に目をくれず、スプーンを手から下ろす。目を瞑って、女性の歌をゆっくりと耳に流し込んでいった。
吸い込まれるような歌。気づけばあっという間に歌は終わってしまった。
静かに広がった拍手に臆することも無く、女性は上品にお辞儀をすると、そこで初めてテーブルにもう空きがないことに気づいて、口に手を当てた。誰かを探しているようにも見える。
困って、まつ毛の長い目をパチパチさせる。外に出ようか迷っている顔がボクの横を通り過ぎそうになったとき、思わず声をかけてしまった。
「素敵な歌でした」
ボクの声に驚いた彼女は足を止めてキョロキョロと首を回す。照明が徐々に明るくなって、そこで初めて女性がボクの姿に気づいた。
やわらげに笑う。濃い紅色のルージュとは対照的に、上品な笑い方だった。
「ありがとう。あなたのお名前は?」
「ダイゴです」
「そう。ダイゴさん」
「お困りのようですね。どうぞ座って」
女性はパッ、と顔を明るくさせてボクの向かい側の席に座ると、通りかかった店員を手で呼び止めて、同じものを、とだけ言った。丁寧にお辞儀をした店員は、すぐに立ち去る。
「昔、ここで同じ歌を、歌っていませんでしたか」
「それは、今晩お誘いしてもいいですか、っていう意味?」
妖艶に笑って伺う顔に、ボクは動揺して首を振った。弁明しようとしたけど、女性は喉を鳴らして言葉を遮る。
「でも残念。わたし、パートナーがいるの」
そう言ってテーブルに置いた右手。白くて細い薬指には、指輪があった。電灯が当たってキラ、と光る。
慌ててもう一度しっかり首を振ると、女性は口に手を当ててくすぐったく笑った。
「ダメよ、ダイゴさん。そういう言い方はね、人を惑わせちゃうんだから」
「そんなつもりでは、なかったのですが」
「ふふふ。分かります。でもね、あなたのように綺麗な人はみんな欲しくなっちゃうの。それなのに、あなたの方から飛び込んでしまうと人は浮かれてしまうのよ。動揺する人だって」
女性が流した目はゆったりと細くなってボクを諌める。
「純粋に見えて、酷い人ね」
「……そう、見えるんですか?」
意外な言葉、言われ慣れていない言葉だったけど、その通りだとは思う。
一応これでも人との距離のとりかたを、自分なりに決めているんだけどな。
「……母がね。昔、歌っていたの。同じ歌を、同じように」
なるほど。納得した。
「ひっかかりがほどけました。小さい頃、家族でここに来たことがあるんです」
「まぁ、じゃあ母の歌を聞いていたのね」
「ええ、きっと」
「嬉しいわ。再会に」
女性がグラスを持ち上げる。ボクも自分のを手に取って、カチン、と合わせた。
先ほどの店員が女性用のスープを運んでくる。脇には小ぶりの花束を添えて、女性に渡した。
「祝福を」
「どうもありがとう」
彼女が受け取ったその小さな花束。胸に抱き抱えても、手のひらふたつ分ぐらいの大きさしかない。上品で控えめな包装紙の中には、見たことも無い花があった。花にしては、生きている感じがしない。
「それは?」
「リッシ湖でしか見れない現象。そのモチーフ」
女性が一輪引っ張って渡してくれる。すべてガラスで出来ていた。細かい粒子で表現された氷のようなちいさい花だ。茎も細くて、少しでも指に力を入れてしまえばパキン、と簡単に折れてしまうだろう。
「ちょっと時期は過ぎちゃったけど、リッシ湖はね、辺り一面フロストフラワーが見れるの。いしの神の祝福だとか」
「石の神?」
食いついたボクは前のめりになってしまう。
「シンオウおとぎばなし、知らないの? さては、あなた、よその地方から来たのね」
「あ、そっちの……」
意思か。
「わたし、会ったことがあるのよ?」
ウインクをひとつ。それから女性は肘をついて窓の方を向いた。
リッシ湖を眺める彼女の、短く切りそろえた髪の間で耳飾りがキラッと輝いた。あれは、オパールだ。とても価値の高いとひと目でわかるほど、見事なもの。乳白色に虹色が栄えて、光の角度によって様々な色に変わる。ボクがあまりにも目を皿にして見るものだから、その視線に気づいた彼女は喉を鳴らして笑った。
「あなた、横顔がお好き?」
「ふふ、まさか。……話の続きを」
「……そうね。不思議なポケモンだったわ」
空になったスープ、二皿。店員に持っていかれると、女性がゆったりと椅子の背もたれに背中を沈めて、テーブルの上で指を組んだ。
「決意がみなぎる、ってああいう感覚なのね」
「決意が?」
「情けないことにね、ちょっと悩んでいた時期っていうものがあったの」
左隣に誰もいない席を、寂しく眺めて言葉を続ける。
「でも、なんだか弱みを握られてもいいかな、って。そんな相手ができたとき、」
俯いたせいで暗く影が落とされた顔をパッ、とあげてボクの方を見た彼女は、目を細めて笑った。
「あぁ、なんかもう、一人で抱えなくてもいい。優しくて、美しい世界に見えてきてね」
その顔を、ボクはなぜだか分からないけどどこか親しみを感じた。自分にないものを、確かに女性が大事に抱えているような気がして。
女性のたまらなく優しくて甘くて、嬉しそうで、大切そうな言葉が頭の中で響いていく。
抱え込まなくていい。ひとりじゃない。世界は優しくて、美しくて。たまらなく愛おしい。
ボクも、本当にそうだと思う。
「お兄さんはどう?」
そういう相手、いる? と、無邪気に手に顎をのせる。白い歯と彼女の指輪がキラリと輝いた。
「踏み込んできてしまう相手。それでも許してしまえる相手。暴力的に優しくて甘くて厳しい相手。あなたの世界を溶かしてしまいそうな……そんな素敵な人」
それ、は。
「誰を、いま、考えたのかしら」
ボクは。ボクの考えた、相手。
ボクは、昔から人とのラインを決めている。人には、踏み込んでいい線というものがみんなある。それを見極めて、やり方を選ぶことは歳を重ねるにつれ自然と身についていったものだった。
失敗すると、人を悲しませてしまうことを、ボクはよく知っているから。
近すぎてもいけない、遠すぎてもいけない。そう考えてきて、ボクは人間関係を上手くこなしてきたつもりだ。
それなのに。
踏み込んでしまいそうになった。踏み込まれてしまいそうになった、相手がいた。
いたんだ。
「そのお顔」
ふふ、と女性が笑う。
「どんな人がそうさせたのか、気になってしまうわね」
手にあるグラスをゆったりと揺らす。
「これはあなたにこそ必要なものなのよ」
女性が空いている方の手の指で、花を一輪すっ、と、ボクの方に寄せてきた。
「そう思うわ」
辺りが少し暗くなった。誰かの影が滑り込んでボクは顔を上げる。いつのまにか、ボクたちのテーブルの横にシュッと背の高く、身なりのいい男が立っていた。
「待たせたね」
その顔に見覚えがなかったので、おそらく彼女の知り合いだろう。
「浮気現場に出くわしたかと」
「いい男でしょう?」
「だから、なおさら焦ったよ」
どうやら、件のパートナーらしい。
「あなたこそ、遅刻なんていいご身分ね」
そう言われて男性は痛いところをつかれたのか、苦笑いをしながらボクから見て女性の右隣に座った。
「女を待たせる男にろくな人はいないのよ。でもいいの」
男性の手の甲の皮膚をひねれば男性は痛い痛いと喚く。それを気にすることもなく、ボクの目をまっすぐ見て女性は、子供っぽく無邪気に言った。
「それでも自分の選んだお人なのだから」
ワーッという声がレストランの奥から聞こえた。三人揃ってそっちの方を見ると、二人のトレーナーが言い争っている。手持ちのポケモンが戦闘態勢に入っていて、片方がわざを繰り出した。盛り上がりように周りの客が立ち上がり、野次を飛ばしはじめる。みんないい笑顔で。
「始まってしまったね」
男性が言って、女性の肩を寄せた。
「ここはね、ポケモンバトルがお盛んなの」
「だから紛失物が多いんですよ。気をつけて」
女性が男性の肩に寄りかかりながら、少し拗ねて言葉を遮った。
「ところで、あなたは? 何をしていたの」
「話が盛り上がってしまったんだ。なんとも素敵な人がいて」
「浮気ね」
「まさか。僕が惹かれたのは、」
くしゃ、と笑う。
「同じ男として素敵な人だな、って思ったんだ。羨望に近いかな、どちらかと言うと」
女性が呆れたように眉をつり上げる。ふぅん、と言って、肩に寄りかかるのをやめた。
「どちらに?」
「反対側の窓辺の席に」
ふぃ、と、ボクたちのテーブルと一番離れている反対側の壁側に男性が指を差した。
「あちらに」
揃ってそちらを見る。そこには。
「……あれ、おかしいな」
男性が首を傾げて、うぅん、と唸った。
「確かに、さっきまでそこに座ってらしたんですがね」
指が差す方向。窓辺の席。誰も最初からいなかったように、席の上はからっぽだった。
海辺の風が入り込んでカーテンだけが虚しく揺れる。テーブルの上にはほとんど手がつけられていない、食後に飲むはずのコーヒーだけがそこにあった。
