牡丹雪【没①】 - 1/2

 一度は止んだ雪が再びフスベの里に降り始めてしまった頃、おれは約束通りダイゴを部屋に招き入れた。

「約束、か」

 ダイゴがそう言いながら後ろ手で襖を閉じると、いささか部屋が暗くなる。まだ行灯に火を差す程ではないが、おれは箪笥からマッチを一応取り出した。

「ああいうやり口はどうかと思うけど」
「たまにはいいだろ」
「いつもなら、喜ぶんだけどな。きみらしくもない」

 意外だ、と思ったことは、ダイゴは周りの目を気にすることがあるらしい、ということだ。

「それにね、」

 ダイゴがそこで言葉を止めた。行灯に火を灯そうとしゃがんだおれは、ダイゴの方を振り返る。彼は相も変わらず、襖のそばにまっすぐ立ちながら、おれの方ではなく庭の方を見ていた。彼の癖である、顎に手を当てながら。

「……なんだ」

 立ちあがりながら聞くと、

「ボクはそろそろ、きみの口から直接聞きたい」

 困ったように眉を垂らしてそう言った。いつもなら接吻で済むはずの話に、決着をつけることも、満足を叶えることも、きっと今はできない。
 言葉に出さずとも彼の表情から伝わってきて、おれは行灯に火を灯そうとしたことをようやく思い出し、マッチを擦った。ダイゴの声が、火花が弾ける音の間に潜り込んでくる。

「ボクのことを、」

 どう、思ってるのかな、って。

 

 

 すべての道具を用意したおれは、それを畳の上に一列になるように並べ、正座で座る。

「やり方に一通りの決まりはある。だけどね、人の数ほど匂いは変わるものなんだ」

 灰色がかった陽の光。庭は雪一色。陽が落ちるにつれ、灰が覆いかぶさって、やがてフスベは黒くなっていく。
 炭の匂いが立ちのぼってくる前までが、おれたちの逢瀬の時間だ。
 お互いやることがある。そして、フスベにいる間、ダイゴはあまりおれと一緒にいたがらない。

「香りは聞くものだ、っていう話は知っているか」

 徐々に暗くなってきた和室の中央で、おれとダイゴは香炉を挟んで向かい合う。

「嗅ぐものではなくて?」

 袖を抑えながら、火を回しておいた香炭団を火箸で取りだし、香炉に移す。灰を払った、中央あたりに押し込んで灰を被せる。

「道、っていうのはな、基本となる決まりはある。けれども、人の手によって同じやり方でもまったく違うように匂うんだよ」
「不思議だな」
「香道では香料の中でも香木の香りを聞く。聞香ともいう」

 香炉を左手で回転させながら、火箸で灰を端から中心にむかってかきあげ、山を作る。ダイゴはその手つきをじっと見ていた。

「『聞く』という言葉には、感覚を研ぎ澄まして微妙な変化を感じ取る、聞き『分ける』という意味があるんだ。心を沈めて、自分の身体と向き合う。そうして香りを楽しむ」

 山のてっぺんから火箸をまっすぐに差し、火窓を作ると、炭のあたたかい空気が立ち込めてきた。
 ダイゴがほう、と息をついた。

「ダイゴは、感覚が鋭い。だからきっと」
「……きっと?」

 おれは先を言わず、ただ笑った。火箸をはさみと取り替えたカチャ、という音が鳴る。

「……きみの言葉を借りるなら」

 はさみを使って銀葉をのせる。

「全部言うのはもったいない、だろ?」

 香炉に向けていた目をダイゴに向けると、彼はあからさまに呆れたような顔をしていた。

「……それってさっきの返事でもある?」
「きみがそう思ったならそうかもな」
「なんだよ、それ」

 何がおかしいのか、手を口に押し当ててクスクスと笑う。白い歯を見せて、眉を垂らして、

「卑怯だ」

 その二文字に、思わず手が止まる。
 おれにそんな言葉を使ってくるのも、そんな顔をするのも、ダイゴぐらいだ。

「さ、嗅いでご覧」

 銀葉に香木を乗せた香炉を、畳の上を滑らせるようにしてダイゴに寄せる。ダイゴはどう手に取ればいいか分からないみたいだ。おれはダイゴと向かい合う位置から隣に移動し、少し後ろの方から指図する。

「お茶を飲むときと同じ格好でいい。聞き筋を上に向けるようにして、手のひらで覆い隠して……そう」

 ダイゴが言われたとおり、左の手のひらにのせた香炉を右の手のひらで覆い隠す。香木が見えるようにすらりと長くて綺麗な指が穴を作れば、

「鼻を寄せて」

 そこに鼻を寄せて、くい、と首を振った。吸いすぎたか。

「っけほ」
「どうだ」
「うん、……そうだね、いい香りだよ」
「もっと聞かせて」
「そう、……そうだな」

 もう一度ダイゴは鼻を香炉に寄せた。

「落ち着いたような匂いが最初よぎる。やわらげで、やさしくて。でも、香りが奥まってくると……炭で焦げる部分かな、鋭くて、」

 そこで一旦言葉を区切る。香炉に向けていた目を、おれに向けて、

「……深みがあるね」

 そう続けて言った。

「うん、ボク好みの匂いだ」

 でも、と、香炉を畳の上に下ろして、ダイゴは目を伏せた。

「昨日のものとは違う」

 気づいたか。

「昨夜、嗅いだのはワタルのものじゃないだろう」
「そうさ。あれはね、子どもたちが作ったものなんだよ」
「あぁ、あの子たちか。ふふ、きみは人気者だね」

 宴会の端で、どうやらダイゴは見ていたらしい。おれが二人の里の子供と一緒に、部屋を移動したところを。

「全然違うよ。ここまではっきり違うんだね。あの子たちの作った匂い。フスベの匂い。焚き火の匂い。炭の匂い。灰の匂い。……そして、ワタルの匂い」

 ダイゴはもう一度、しっかりと香炉に鼻を寄せて嗅ぐ。目を瞑って、肺に敷き詰めるように、

「はっきり聞こえるよ。ワタルの音が」

 静かな和室に、シン、とダイゴの声だけが響く。おれはダイゴに肩だけ寄りかかった。びく、と微かに震えはしたが、まだ深く匂いを聞いていたいみたいだ。ゆっくりと、反芻するように。飲み込むように。忘れないように。

「火箸を動かす手つき。袖が擦れる音。鼓動。息づかい、……ッ」
「……続けて」

 おれは、ダイゴに少しづつ密着していった。まずは腕に触れて、上へ滑らせ、首をなぞり。そして遠くの肩へと。途中に触れたうなじはぬるかった。冷たく畳を滑る音と、火鉢のくべる音だけが静かに、波紋を広げて揺れ鳴く。

「ワタルの、」
「……うん?」
「すべてが。聞こえるよ」
「すべて、か」
「ワタルが、どう生きて、どう思って、今までしてきたこと」
「……そうかい」

 ダイゴの肩を寄せて、こっそりと耳打ちをする。

「きみだけだよ、……気づいたのは」

 そう言うと、やっと目を開けて、こっちを見てくれる。分かりやすいように顔を真っ赤にさせた。一瞬だけだ。すぐに熱が冷めると、ダイゴはじっとりとした目をする。

「……やっぱり卑怯だ」

 口に手を当ててそう言えば、彼の爪から香炉の匂いが漂ってきた。

「卑怯、なぁ」

 おれが燻した匂いが、徐々に、この畳部屋に広がっていく。深まっていく。
 もともとの話。ダイゴをここに連れてくる気は無かった。無かったが、今回ばかりは。
 誘ったのはおれだったから。

──日本酒は、不慣れなもので

 おれ、だった。

「顔が、」

 ダイゴが身じろいだ。手から滑り落ちそうになった香炉を慌てて持ち直す一瞬を、逃さない。

「匂いが、ちか──……ぅ、」

 バシャ、と、間に合わなかった香炉が倒れる。灰と炭の匂いが充満し、畳が燻される音も聞こえた。ダイゴが暴れる。その顎を指で掴みあげ、捩じ伏せる。殴りかかろうとしてきた手も掴み封じて、身動きを完全に取れなくして。

「ん………、く……」
「ん、……んッ……ふ、……ッ」

 くちゅ、と。柔らかい舌を歯で軽く食む。すると、ダイゴが腰を捻って逃げようとする。顎を爪でガリ、と食い込ませると、ゆるゆると力が抜けていった。

「ん……、ぅ……」

 気持ちよさそうな声を漏らして、やっと、ダイゴも落ち着いてキスを深めてくる。
 つる、と唇の端からぬるくなった一滴が、滑り落ちた。やおら、顔を離せば、

「んぁ……ふ、……ふふ、」

 袖で拭いながら肩を震わせていた。息切れと、おそらく、満足して。

「うん、やっぱり。好きだな、ボク。この匂い」

 畳、少し汚れちゃったね、とダイゴが申し訳なさそうに言う。
 元々布を広く敷いていた。運良く香炉はその上に倒れ、畳に灰がかかった箇所はほんの少しだけ。香炭団は、布と畳の境界スレスレのところに転がり落ちていた。

「きみは、かつておれに言ったな」

 香炭団を火箸で掴んだおれは、それを火消し壺に移し、蓋を閉める。

「どれだけ多くの人の中へ紛れても、どこに行こうとも、」

 この世界は、人とポケモンに溢れる、雑踏の世界。様々な匂いに溢れ、様々な音に溢れる。
 だけど、帰省したときにいつも思うことがある。自分にとって大事なところは、帰ったときに、その土地の匂いを感じる。
 フスベに帰ると、フスベの匂いを感じるように。フスベの音に気づくように。特別な場所は、特別なものがあるってことを。
 それは旅をすればするほど、離れた場所に行けば行くほど、より濃くなる。

「必ずおれを見つけられる、って」

 ダイゴはおれの目をじ、と見てしばらく黙っていた。すっかり和室は暗くなって、行灯のほのかな明かりだけが、ダイゴの頬から首にかけて張り付いている白い皮膚を、橙色に染める。特に、目は焚き火に当てられたように光が揺らめいていた。
 無表情のダイゴは、いつも以上におれの心を見透かしているように見える。

「ふふ、」

 でも、すぐに和らげに笑って、おれの頬に手を伸ばしてくる。する、と、少し柔らかい指の皮膚がおれの頬をあたためる。当たった指輪の感触は、対照的に冷たかった。

「……今は、どうだろうね」

 こうやって、柔らかい笑みが零れる瞬間は、ダイゴの本心が滲み出てくる合図だ、って知ったのは最近のことだ。
 見つけるのは得意なんだ。それはきみも一緒だろ。おれたちは、変なところ似ているのだから。
 口には出さずに、おれは頬に触れるダイゴの手を握って下ろした。

「さっきの返事だ」
「返事って?」

 ぎゅ、と、握りしめる力を強める。

「きみのこと」

 つまりは、ダイゴのことを。どう思ってるか、その応えを。

「……知りたいんだろ?」

 言葉を続けながら、畳の上で灰を少しだけ被ってしまったものに手を伸ばした。
 ダイゴに渡すように仕向けた畳紙だ。

「なら、捻りだしてみろ」

 そこから滑り出した花札を一枚。手に取ってダイゴに見せる。彼は嬉しそうに笑って、

「いいね」

 おれの手を握り返す。花札を持たない左手の方だ。そして愛おしげに宣戦布告を受けとめた。

「そういうの。大好きなんだ、ボク」